2022年4月17日 復活日礼拝「イエスの復活」ヨハネ福音書20章11-18節

パウロは復活について、「あなたがたはバプテスマによって、イエスと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しい命に生きるためである。キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と述べています。イエスは全て人間の初穂として、死から復活されました。そのことによってわたしたちは新しい命に生きるものとされたというのです。言い換えれば、わたしたちは有限的な存在なのに、終末的な永遠の希望を持って生きるものにされたというのです。ヨブやアブラハムは、すべてを奪われ、絶望的状況の中に置かれたのに、不信仰に陥って人生を疑い諦めることはなく、終末的希望をもって生きるものとされました。ヨブやアブラハムを終末的な希望に生かしたのは復活の希望です。復活の希望は人間の側にあるのではなく、神の側にあります。神は神の希望を主イエスの復活によって明らかにされたのです。
無教会の矢内原忠雄は、初めて信仰に芽生えた時のことを語っています。その出来事は、内村鑑三の娘ルツ子が18歳で亡くなり、その埋葬に立ち会ったとき起こりました。内村は一握りの土を掴んだ手を高く上げ、甲高い声でいきなり「ルツ子さん万歳」と叫ばれました。矢内原はその時、全身雷に打たれたようにショックを受けたそうです。その出来事が、矢内原のキリスト教に入信する契機となったそうです。内村鑑三が最愛の娘のルツ子を18歳で失う、その悲しみの中で、「ルツ子さん万歳」と叫んだのは、キリスト者として、イエスの復活と自己自身の復活への希望に立っていたからであると思います。矢内原忠雄は内村鑑三の復活信仰に心打たれ、復活信仰を受け容れることができたといわれます。
内村鑑三は復活への信仰と希望について、ルツ子の葬儀の挨拶の中で、「ルツ子は既にこの世においてなすべき事をなし終えて、父の国に帰ったのです。この式は、ルツ子の葬式ではなく、結婚式です。ルツ子は今日清く輝く晴れ着をまとい、キリストのところに嫁入りするのです。今日はルツ子の晴れの祝いの日であります」と語ったと言われます。内村鑑三は「キリスト者は、自分の生命は死によって終わるのではない。イエス・キリストの復活に与り、永遠の命に与る、その究極的な永遠の希望に生きる」と述べています。わたしたちも復活祭の時、内村鑑三や矢内原忠雄のような復活信仰の確信に与りたいと思います。   
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章13節に「キリストは死者の中から復活した。あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」とあります。復活信仰はわたしたちの信仰にとって最も本質的なことだと言っています。しかし、それだからと言って、復活信仰が多くの人に理解されるかと言えば、必ずしもそうではありません。パウロがアテネに伝道に行ったときのことです。パウロの説教を聞いていたアテネ人が、復活の話になったら、あざ笑い、また、いずれ聞くと言って、皆帰って行きました。イエスの復活信仰を信じることが出来なかったのです。それはアテネ人だけでなく、現代人も同じではないでしょうか。わたしたちにとって復活信仰を信じ受け入れることはやさしいことではありません。
相沢健二先生は「現代のキリスト者の問題の一つは、『死後のテーマ』がキリスト者の意識から脱落している点にある。多くのキリスト者は、『キリストの復活』については信じていても、『自分の復活』についてはリアルには受け取っていない。それが現代のキリスト者の大きな特色の一つとなっている」と言っています。コリント教会も同じような問題を抱えていたというのです。パウロは、「キリスト者の復活」について少しくどいほど説教されています。「主イエスを甦らせた方が、わたしたちもイエスと共に蘇えらせて、神の前に立たせてくださる。神は主イエスをよみがえらせたもう御力をとおしてわたしたちをもよみがえらせてくださる」と言って、キリスト者の希望がリアルになるようにと勧めています。
矢内原忠雄は、藤井武が妻を失ったとき、「神さまは私どもの愛する者を天に召され、御許で安らかに守り、美しく磨き上げてくださいます。復活のあした、再び彼らと会う時、恥ずかしくないように、私どもも信仰によって御国の幸福を待ち望みつつ、地上の歩みを勇ましく、正しく送らなければなりません。」と言っています。未だ来たらぬ終末的な復活の希望、自分が復活される事実を遥かに望みつつ、生きる。それが復活信仰であるといいます。
ヨハネ福音書20章は、蘇られたイエスとイエスの墓を訪ねたマリアと出会いの物語です。ルターは、「新約聖書の中には、イエスと多くの人々との出会いが語られているが、その中で最も希望に満ちている物語は復活のイエスとマリアの出会いの物語である」と言っています。マリアにとって、イエスは主であり、生きる根源であり、生き甲斐でありました。そのイエスがローマ人の総督ポンテオ・ピラト、ユダヤ人王ヘロデに裁かれ、弟子たちに捨てられ、多くの人に裏切られ、群衆が見ている中で、たった一人で十字架に付けられました。マリアはどうすることも出来ない無力感、何もしなかった後悔、孤独、悲嘆に襲われ絶望しました。神は世の不条理に絶望するマリアに、主イエスの復活の御力をもって、慰め、希望を与え、新しい命を与えるのでした。マリアは神の救いを受け入れました。そして、新しい命に与り、新しい命に甦ったのです。マリアはわたしたちの先達です。わたしたちも神の復活の希望と恵みに与り、主イエスと同じ様に復活すると約束されるのです。この混迷した時代に神の約束の言葉を信じて受け入れ、復活の希望を見上げ、目指して歩んで行きたいと思います。