日本の教会は解放の神学の影響を受けたと言われます。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出されたように、今日のわたしたちを貧困、病気、圧政、あらゆる罪から解放し、自由にするというのです。解放の神学の根本は出エジプト記において起こったことが、今日のわたしたちにも起こるという希望の信仰です。
18節に「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」とあります。この「初めのこと、昔のこと」はイスラエルの民が奴隷の地、エジプトから解放された「エジプト脱出」のことを意味します。口語訳は「あなたがたは、さきのことを思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない」となっています。イスラエルの民は、その歴史の初めに、神の大きな救いの出来事を経験しました。その過去の大きな神の恵みを思い起こすなというのです。なぜでしょうか。常識的に考えれば、過去の恵みを思い出すことは大切なことで、決して忘れることの出来ないことです。ところが預言者イザヤは、それは駄目というのです。なぜでしょうか。イザヤは人一倍繊細な精神を持った預言者で、過去の栄光を思い起こそうとする人々の心の底にある今の嘆きと呟きを見ています。また、昔は良かったと過去を懐かしむが故に、今の感謝と恵みを失っていることを重大視しているのです。
16節に「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを再び立つことを許さず、灯心のように消え去られせた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。」とあります。神はイスラエルのエジプト脱出のとき、イスラエルの先祖を力強く導いくださった。しかし、その神は今、どこかに行ってしまったのか。エルサレムを倒され奪われ、わたしたちはバビロンに連行され、苦しい捕囚生活は強制されている。神はわたしたちを見捨てたと嘆き悲しみ絶望し、未来に希望を持つことができないというのです。言い換えれば、彼らの生き方、その在り方が前向きになれないで、後ろ向きで希望がない。しかし、神は打ちひしがれるイスラエルの民に神の言葉と希望を与えられるというのです。
18節、19節に「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流させる。」とあります。「昔は良かった」と言って、現在を嘆き、呟き、未来に心を閉ざしているイスラエルの民に神の言葉と希望を与えているのです。つまり、新しい神の救いを期待すべきであるというのです。古いこと、それが、たとえどんなに良いものであっても、それに留まっている限り、前進はない。確かにいにしえのことは決定的な救いの出来事でしたが、何時までもそのことにこだわっていては駄目というのです。神に向かっていつでも新しいことを期待していくべきであり、期待のないところには何も起こってこないというのです。
「見よ、新しいことをわたしは行なう、今や、それは芽生えている。」とあります。「新しいこと」とは何でしょうか。イザヤによれば、新しいエジプト脱出です。確かに神は出エジプトにおいて驚くべき業をなされました。しかし、そのことを思い起こすな、頼りにするなというのです。神は過ぎ去った過去で、働くことはできない。将来において、未来において働かれるというのです。
20節に「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませる」とあります。この言葉はエジプト脱出の出来事を念頭に置いた言葉です。内容は、出エジプトの出来事を遥かに越えています。出エジプトの時には、葦の海を二つに分けて、道を作り、イスラエルの民を渡らせました。だが、新しいエジプト脱出は海ではなく、バビロンとエルサレムの間を立ちふさがっている2000キロにも及ぶ荒れ野と砂漠です。その砂漠と荒れ野に道を作り、川を流すというのです。つまり、捕囚の民はバビロン捕囚が終え、彼らの故郷エルサレムへ帰還できるというのです。「山犬」は、荒れ塚を棲家とする野獣で、その凶暴さは人間の手には負えません。「駝鳥」は自分の産んだ卵を捨ててしまう無慈悲な鳥です。その人間を苦しめる野獣、山犬、駝鳥が神を崇めるようになる。つまり、全く新しい世界が到来し、全てが新しい存在に変えられるというのです。
神は砂漠に道を敷き、荒れ野に川を流します。これは、神の究極的な希望を意味します。神の解放の力は、イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放やエルサレム帰還だけでなく、人間の心の全世界にまで及ぶというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節に「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」とあります。キリストにつながる者は誰でも、新たな命が与えられ新しい人に生まれ変わる再生、新生の経験が与えられるというのです。イザヤが語ることはすべて新生です。わたしたちが問われていることは、その神の究極の希望を信じ受け入れるかどうかです。エゼキエルが預言したようにわたしたちは深い谷底に投げ出された枯れた骨のように、心も体も枯れ果てています。しかし、神の新生の言葉を信じ受け容れるとき、新しい存在に変えられます。信仰の本質は新生です。アウグスチヌスは「告白」の中で「神はわたしたちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることは出来ないのです」と言っています。神は、わたしたちがイエス・キリストに繋がる時、全く新しいことを起こしてくださいます。その信仰と真実を信じ受け入れ従っていきましょう。