イザヤ書は66章ありますが、3人の預言者によって書かれ、40章から55章まで書いたのは、第二イザヤで無名の預言者であると言われています。彼は国が滅亡するという悲劇に遭遇しました。北東にあったバビロン帝国のネブカドネツァルは南に侵攻し、エルサレムを侵略し略奪しました。時の王ゼデキヤは捕らえられ、両目を潰され、足には青銅の足枷をはめられ、多くの指導者と共にバビロンに連行されました。その中に預言者イザヤもいたのです。
イスラエルは神に選ばれた優れた民族という誇りを持っていました。そのイスラエルが異邦人のバビロンによって滅ぼされました。その現実をイスラエルは受け入れることができず、信仰も誇りも失ってしまいました。そのような精神的な苦悩の中で、捕囚生活という最も苦しい屈辱的な生活が始まりました。66章12節に「我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊な所に置かれた」とあります。古代人にとって、防ぎようのない脅威に出会い襲われると、「水の中を通る」、「火の中を歩く」と表現しました。イザヤは捕囚の苦難を「水の中を通る、火の中を歩く」ことに譬えています。
1節に「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。神は捕囚の民イスラエルが「火の中、水の中を通る」ときにも、共にいてくださる。これが第二イザヤを通して捕囚の民に与えられた神からの力強いメッシージです。
5,6節に「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせ、よ、南に向かっては、引き止めるな、と言う。」とあります。エルサレムが陥落した時、多くの者は捕らえられ、バビロンや周辺の国々に連行されました。家族は別々の国に散らされました。しかし、神は東に、西に、北に、南に働きかけ、散らされた者たちが再び集められる。解放の時は近い。それ故に、「恐れるな」といわれるのです。
宮沢賢治の言葉に、「東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行って稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行って怖がらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い。」とあります。賢治は西に東に北に南に、貧しい人や悲しむ人、病気の人を訪ねた心優しい詩人です。イザヤの神は、神だからと言って高いところに鎮座しておられる方ではありません。「火の中、水の中」にいる者のために東奔西走してくれる神です。イザヤは、神は心優しく愛に富む方である。罪深い人間の問題に関わらない、聖なる権力者、絶対者ではなく、人間のために生きて働き、身を粉にして働いてくださる方です。
1節に「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなた名を呼ぶ」とあります。「あなたの名を呼ぶ」は、特に個人的な親しい名前を呼ぶことによって、「あなたとわたし」という人格関係が生まれることを意味します。神は人格的な存在であって、わたしたち一人一人を「アブラハムよ。エリヤよ。サウロよ。ペトロよ」と具体的な名前で呼んで、「あなたはだれのものでもない、わたしのものである」と言われます。つまり、あなたは何者にも隷属しない。あなたの体も、心も、人生も神のものである。誰にもあなたの人格を侵すことをさせないと宣言します。
「今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」とあります。「贖う」は、初めは自分のものでしたが、何かの理由で人の手に渡ってしまったものを、もう一度代価を払って、買い戻すということを意味します。神は自分を捨てていった者をひとり子であるイエス・キリストを犠牲にして買い戻されるというのです。
4節「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」とあります。神は、わたしたちは何の取柄のない、粗末な存在ですが、神の目には尊い存在と言って受け入れてくださるのです。また、誰からも重んじられなくても、神は重んじてくださる。誰も愛してくれなくても、神は愛してくれ下さるというのです。
5節,7節に「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫をつれ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」とあります。自分は何のために生まれてきたのか。それはわたしたちにとって究極的な問いです。しかし、神はその難しい問題に、答えてを与えています。「何のために生まれてきたのか」という問いに、わたしは、神の栄光のために生まれてきたと言うのです。
神はどうしようもないほど、小さな、欠けの多い存在である者をわたしのもの、わたしが造った者と受け入れてくださいます。わたしは何のために存在するのか。神はわたしの栄光のためにあなたを創造したとハッキリ言っています。この真理を体得するまで、試行錯誤を繰り返します。しかし、究極的にはこの真理を信じ、受け容れ、感謝と喜びをもって生きて行きたいものです。