2022年2月27日 「信仰の原点」 イザヤ書12章1-6節

 与えられたテキストはイザヤ書12章1-6節です。この言葉を解釈する前にイザヤの信仰の原点である信仰体験を理解する必要があると思います。イザヤが20歳頃、神殿に入りました。当時は神殿の中で香をたいていました。その香の煙の中で一つの幻を見ます。高く天にあるみ座に、衣の裾を神殿いっぱいに広げて座している主を見ました。天井にはセラフィムと言う天使が飛んでいたといいます。その天使の一人が、火箸で掴んだ炭火をイザヤの口に当て、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました。つまり、イザヤの存在全体が清められ、彼の罪が決定的に赦されるという経験をされたのです。イザヤはそれまで罪と汚れの中に置かれ、自分の生きている意味がわからず、虚しい思いで、絶望し、生きているのか、死んでいるのか分からない日々を送っていました。しかし、その日、神に出会い自分の存在の意味を掴み、神のために生きる新しい道を与えられる経験をしたというのです。6章8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』。わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」とあります。イザヤは、自分の生きる場所を見つけたのです。罪を赦してくださった神の恩恵に答えて生きるというのです。
ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」とあります。この「立てる」とは「存在する」と言う意味です。言い換えれば、「存在させられた」というのです。つまり、弟子たちの存在の理由と意味は弟子たちの中ではなく、イエスの中にあるというのです。ローマの信徒への手紙14章8節では、パウロは「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という信仰を告白しています。イザヤも同じ信仰を告白しているのです。自分は神に選ばれ、神の言葉を伝えるために遣わされ、そのために生きるというのです。
しかし、神の言葉に従っていくことは苦難と困難がともないます。イザヤが神の言葉を伝えても、聞いてくれる人はひとりもいません。王も民衆も、イザヤの言葉を聞いて、激しく反撃するのでした。それでも、イザヤは失望したり、焦ったり、諦めたりすることはありませんでした。イザヤは神の裁きがくる。しかも徹底的に裁かれると語りました。イザヤの言葉通り、イスラエルの人々は捕囚としてアッシリアのニネベに、バビロンに連行されていきました。多くの人たちは生きる目的と意味を失い、絶望しました。神を信じても何の甲斐もないと神を捨てました。しかし、イザヤはそのような状況の中で絶望することなく、希望をもって神の言葉を語りました。  
1節に「その日には、あなたは言うのであろう。『主よ、わたしはあなたを感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」とあります。イスラエルの民はヤッハウェの神を捨て、アッシリヤやバビロンの世の力、世俗の権力を信頼し追随していきました。それに対して神は厳しく臨まれました。しかし、今神はその怒りを翻されたのです。「翻す」は「悔い改め、方向転換」を意味します。神が方向転換してくださったのです。「神は怒りを翻し、わたしを慰めてくれた」、とあります。「慰められる」は、「救くわれる」という意味です。この世の物に心を奪われ、神を捨てた者が救われるのです。イスラエルの人々が心を入れ替えて立派になったから救われるのではありません。弱さを持ち、打ちひしがれている、死の陰に座しているままです。その者がそのまま神のところに来なさいと招いてくださる。それが「慰められる」という言葉の意味です。
2節に「『見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いになってくださった』」あります。わたしたちが、この世を生きていく時、様々な困難や悲しみや重荷を負わなければなりません。そのために常に恐れ、思い煩います。そのような中でも神を信頼していけば、恐れはないというのです。この「信頼」と言う言葉は、ヘブル語で「バタハー」と言い、「委ねる」という意味です。元の意味は人が大地に大の字になることを意味します。恐ろしい敵が自分の体の上を乗り越えようが、体を引き裂き切り裂こうが、大の字になっている。そのように、神のみ手の中に自らを委ねてしまうことを意味します。イザヤは神に全てを委ねていく、そこに慰めと救いがあるというのです。
4節に「その日には、あなた方は喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」とあります。「その日」とは、やがて来るべき日のことです。その日を信じて歩むならば、喜びの中で救いの泉から、汲めども尽きることのない命の水を汲むことができるというのです。わたしたちは「その日」があると信じているでしょうか。信じているからこそ、今日を生きていけるというのです。もし、わたしたちの生活から、その日が失われてしまうならば絶望です。ただ、この世の目に見える現実だけを信じているならば、虚しく、絶望しかありません。しかし、現実がどのようあれ、どんなに厳しいものであっても、救いの泉から命の水を汲む日がくる。いや、イエス・キリストによってすでに来ている。救いの泉の水は与えられているというのです。その事実を信じて、平安と喜びのうちを歩んでいきたいと思います。