2022年1月23日 「命を与えるイエス」マルコ福音書8章27-38節

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 主イエスが初めて、自分の進む道は苦難の道であることを明らかにされたところです。31節に「人の子(イエス)は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥されて殺される」とあります。この「必ず」は神の御旨、神の定めを意味します。イエスはローマの兵士に逮捕される直前、ゲッセマネの丘で、「神よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心の適うことが行なれますように」と祈りました。イエスは自分の道を捨てて、神の道を選択されました。そのためにイエスの苦難は避けられないというのです。
 なぜイエスの道を苦難の道でなければならないのか。10章45節に、「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。イエスが苦難の道を歩まれたのは、わたしたちのためであります。イエスは十字架に付けられ、槍で刺され、血を流し、息を引き取っていきました。イエスの死を見取る者は一人もいませんでした。痛みと孤独、暗黒を経験されました。その死はわたしたちの救いのため、わたしたちが豊に生きるための死であるというのです。
31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と、弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とあります。この「いさめる」は、「厳しく叱る」という意味です。33節の「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」とあります。この「叱る」と同じ言葉です。ペトロがイエスを激しく叱ったというのです。ペトロは倒錯しています。ペトロはイエスの教師になり、自分が先に立っているつもりです。それがペトロの罪です。
33節に「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とあります。この「引き下がれ」は、「わたしの後ろに廻れ、わたしの先に立つな」という意味です。つまり、人間としてわたしの後ろに廻りなさい、わたしの後ろについてくる者になりなさいというのです。
ペトロはガリラヤ湖で漁師をしていたとき、イエスから「わたしについてきなさい。あなたを人間を取る漁師にしよう」と言って招かれました。ペトロはイエスの言葉に従いました。しかし、いつの間にか、その本質を失っていきました。ペトロはイエスから「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われています。ペトロはイエスに「あなたはメシアです」と告白し、自己を絶対化し、イエスを利用しようとしたのです。ペトロは罪から解放され、自由にならなければなりませんでした。
ヘブライ人への手紙12章1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。罪は濡れた着物のようにわたしたちの心に絡み付いて離れません。人間の最も深い部分に蝕んでいる自己中心、自己絶対化です。
ヘロデ王の子のフィリポはローマ皇帝の栄誉をたたえて、町を造り、フィリポ・カイサリアと名づけました。そこには皇帝を礼拝する神殿が建て、また、シリアと隣接していた土地で、「パンの神」を祭りました。どちらも人間の欲望を満たすための礼拝で、人間の欲求と願望が中心で、自分の利益のための宗教です。イエスはその価値観を捨てて、自分の十字架を負って従えと命じました。「捨てる」は「裏切る、拒む」という意味です。しかし、わたしたちは「自分を捨てなさい」と命じられても、それを実行することは不可能です。ペトロは大祭司の中庭で、イエスについて「そんな人は知らない」と言って三度拒んでいます。「知らない」は。「自己否定」という意味です。自己否定をしなければ、キリスト者になりえないというなら、キリスト者になれる人はいません。イエスは自己否定を求めているのではありません。イエスは自分だけの利益を求める生き方を捨てることを求めているのです。自己を中心とした生き方から自由にされ、イエスを証しすることを人生の課題と目的とすることを勧めているのです。 
ジュネーヴ教会教理問答の中に、「人生の主な目的、あるいは人生の最高の目的はなにか。それは神を知ることです」とあります。イエスの御名を高めることを究極の目標に生きるというのです。主イエスに従って生きようとする者の道は、世の目には受難の道に見えます。しかし、その道こそ真の命に至る道です。福音のために命を捨てる者は、そこで新しい命が与えられるというのです。マルコ福音書8章34節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」とあります。イエスに従う者は十字架を負い、苦しい道を歩みますが、主イエスに根底から支えられ、恵みに満ちた喜ばしい歩みが与えられるというのです。その福音の道を信じ受け入れ従っていきましょう。