2022年1月16日 「さぁ、起きなさい」 ルカ福音書7章11-17節

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 与えられたテキストはルカ福音書7章11-17節です。イエスがナインという町の門に近づいた時、葬列がお墓に亡骸を葬りに行くために、城門を出て行くところでした。一人の婦人が激しく涙にくれながら、大勢の町の人達に支えられながら棺に付き添っていました。「或るやもめの一人息子が死んだのだ」と注釈がつけています。彼女は夫に先立たれ、今、一人息子を亡くされたのです。
女性が一人で生きていくことは、大変難しい時代でありました。夫に先立たれた彼女の唯一の希望は、残された息子が成長し、一人前になって、妻を迎え、子どもをもけることでした。そこに希望を置いて、これまでいろいろな困難の中を生き抜いてきました。しかし、その息子を失うという突然悲しみが彼女を襲いました。唯一の望みを失った彼女は、大勢の人々に支えられ、かろうじて葬列に加わり歩いていました。その嘆き悲しむ様子は、人々の心に深い同情を引き起こしました。
13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた」とあります。この「憐れに思い」は福音書の中に何回か出てきますが、すべてイエスに関わるところに用いられています。元々は「はらわた」という言葉から来た動詞で、お腹の底から突き上げてくるような激しい悲しみの感情を表します。イエスはそのような深い悲しみの思いに突き動かされて、一歩を踏み出されたのです。他の者は余りにも気の毒で、嘆き悲しむ母親に近寄ることができませんでした、しかし、イエスはただ一人決然とした様子で、この葬列に近づかれました。母親の傍にいた人々は、ただならぬイエスの様子に驚きました。泣いていた母親自身も、涙にぬれた目を上げて、イエスを見つめました。
その時です、イエスは悲しんでいる母親に向かって、強い口調で「もう泣かなくてもよい」と言うのです。それは命令形で、非常識に見えます。余りにも悲しい出来事のために、人々は何を言ってあげればよいか分からず、文字どおり言葉を失いました。しかし、イエスは「もう泣かなくてよい」と命じるのです。このような時に、「泣くな」と命じることが出来るのは、イエスしかありません。イエスは「泣くな」と命じますが、単なる命令ではなく、泣かなくてもいい証拠と事実を示し、寄り添って慰めの言葉を与えるのです。言い換えれば「泣く必要はない」というのです。
イエスは、棺に近づいて手を触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じました。これも命令形、不思議な言葉です。亡くなって、城門を出て、死の世界にいる者に言われるのです。わたし達も、時々愛する者を亡くし、悲しみの余り、棺に納められている故人に、呼びかけます。しかし、私たちの声は死人に届くことはありません。私たちと死人とを隔てている死の壁は鉄壁であります。どんな物を持ってきても、その壁を突き破ることは出来ません。しかし、イエスは、その壁をものともしないので、打ち破るのです。イエスの声は、死の壁を突き破って、向こう側に行った者に対して、生きている人と同じ様に届くのです。その証拠に、イエスが「若者よ、起きなさい」と言われると、若者は、主イエスに命じられた通りに起き上がったといいます。
15節に「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」とあります。この短い言葉は、私たちの心をイエスに向けさせます。イエスがこの若者を甦らせたのは、彼を母親に返すためでありました。この息子を母親に返してやりたい、その熱い思いで、イエスはこの奇蹟を起されたのです。それは、息子を失った悲嘆にくれた母親を突き動かされたためであります。神の独り子・イエスが、名もない一人の婦人の悲しみに、心を動かされ、イエスはご自分の悲しみにされたのです。そして、この婦人をこのように悲しませている、死と絶望に立ち向かっておられるのです。
パウロが「罪の報酬は死である」と言うように、イエスは人を罪と死に追いやる力に立ち向かわれるのです。先程の「憐れに思い」と言う言葉ですが、「怒る」という意味もあります。イエスは、この婦人に深い憐れみを持ちましたが、同時に、彼女を悲しませている死に、怒りをもって、立ち向かい、死を打ち破られたのです。私たち人間は、神のことを何も分からなくなってしまうほど、神から離れてしまいました。そのために孤独に苦しみ、絶望して、死に滅んでいくしか仕方のない者になってしまいました。その事実を、誰よりも悲しんでおられるのは神です。イエスは、その神に答えて、ご自分の命を賭けて、死と戦ってくださいました。そして、私たちの初穂として、第二のアダムとして、死に打ち勝ってくださったのです。
16節に「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」とあります。この「現れた」は、「甦る」と訳することが出来ます。パウロが、イエスの復活の証言として、「ケファに現れ、その後十二人に現れ、次いで、ヤコブに現れ、最後に、月足らずで生まれたような私にも現れた」と言っていますが、この「現れた」と同じ言葉です。復活の主イエスはいつも私たちと一緒にいてくださいます。特に、悲しみに沈んでいる時に、悩みに打ちひしがれて、弱り果て、無力感にさいなまれている時に、主イエスは御言葉をもって慰め、立ち上がる力を与えてくださり、寄り添ってくださいます。「もう泣かなくてもよい」とイエスは悲しむ私たちに寄り添ってくださいます。「もう泣かなくてもよい。あなたに言う。起きなさい」と言うイエスの言葉が、いつもこの自分に語られていることを信じて生きていきたいものです。