2022年1月9日 「真の信仰」ルカ福音書7章1-10節

 与えられたみ言葉はルカ福音書7章1節から10節で、百人隊長の僕がイエスにいやされる物語です。9節に「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」とあります。この「感心する」は元々「非常に驚き怪しんだ、不思議に思った」などの意味があります。また、「これほどの信仰を見たことがない」とありますように「信仰・ピスティス」と言う言葉が初めて出て来ます。つまり、「信仰とはなにか」を主題にしています。「見た」は「いろいろなところを探し、求め、ようやく発見できた」という意味です。マタイ福音書13章45節に「天の国は次のようにたとえられる。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とあります。この「見つける」は持ち物を皆売り払って宝物を買うような「発見」を意味します。つまり、百人隊長の信仰がイエスに「非常な驚き」を与えた信仰であったというのです。「百人隊長の僕をいやす」と見出しを付けていますが、「イエス、真実な信仰を発見する」方がよいと思います。つまり、イエスが発見した信仰とは、どういう信仰か。イエスに褒められるような信仰を持つことができるか、そういう問題を主題にしています。
3節に、「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」とあります。ところが、6節には、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」とあります。百人隊長はイエスに「来てください」と頼んでおきながら、イエスが家に近づくと、「あなたを入れる資格はない」と断っています。呼んでおきながら、いざとなると断る。非常に混乱し、矛盾しています。しかし、この矛盾した中に、彼の思いが込められているのです。イエスに来て頂きたいのです。それ以外に救いはないのです。彼はそのことを十分に承知しています。しかし、同時に、自分には、イエスを我が家に迎え入れる、資格がないことを十分に認識しています。そこに矛盾があります
百人隊長はユダヤ人ではありません。ローマ人か、シリヤ人か、異邦人です。しかし、とても立派な人物でありました。ユダヤ人の長老たちは、彼は、ユダヤ人を愛し、会堂まで建ててくれた。彼は神の恵みを受ける資格があると褒めています。イエスに助けられるに相応しい人物であります。しかし、彼自身は、自分は全く価値がないと告白しています。この矛盾こそが彼の信仰、彼の謙遜です。
7節に「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」とあります。この「僕」はギリシャ語で「ドゥロス」と言い、「奴隷」という意味です。彼は、「わたしはイエスの前では奴隷だ」と言うのです。パウロが、自分を紹介する時、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されたパウロから」と言っています。自分を主とするのではなく、イエスを主、主人とするのです。徹底的に自分を無にして、仕え従っていく。それがパウロの、百人隊長の信仰です。
8節に、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」とあります。百人隊長の信仰の核心を表しています。彼は隊長ですから、権威があります。命令をすれば、部下は従います。当然のことです。しかし、彼はそれを当然としませんでした。驚き畏れています。自分のような者でも人の上に立つ事ができ、部下が自分の命令に従ってくれることを自明なこととしていませんでした。彼の心の中には、権威に対する誠実で謙遜な姿勢と権威に対する恐れがありました。
その彼がイエスに出会い、イエスを知りました。イエスが、自分が立っている権威よりも遙かで確かな、神の権威のもとに生きておられることを知りました。彼は、自分が語る一つ一つの言葉が持っている重みを、いつでも考えていました。自分のような者でも、言葉をもって人を動かすことができる。しかし、イエスが語られる言葉は、自分の言葉を遥かに越える力を持っていることを知りました。
6節に「百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして。わたしの僕をいやしてください』とあります。「来て下さる必要はありません。あなたの言葉にはそれだけの力があります。その言葉だけを聞かせ頂ければ、それでよいのです」と言うのです。
しかし、ユダヤの人々は言葉だけでは安心できませんでした。もっと確かなしるしを求めました。目に見える、もっと具体的な、この世のものを求めたのです。しかし、百人隊長は、イエスの言葉だけを信じました。彼はイエスに向かって「一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言うのです。使いに来た者達が家に帰ってみると、僕は元気になっていました。主の言葉が僕を生かしたのです。
クリスマス物語のマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言われたように、イエスの言葉には力があり、人をいやし、人に命を与える力があります。その信仰的事実を信じ、信頼し一切を委ねて、従っていきたいと思います。