エリサベトとザカリヤの老夫婦には長い間、子どもがありませんでした。聖書の時代には子どもは神の祝福のしるしと考えられ、子どもがないことは、恥しいことと思われていました。二人は子供が与えられることを願って、長く祈り続けてきました。しかし、今や、二人とも既に年をとり、子どもが与えられる可能性もなくなり、すべての事に諦めていました。
ところが、ある日、ザカリヤに天使が、「ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と告げました。耳を疑う宣告でした。もうずっと前に諦め、もうそのことについては祈ることもありませんでした。しかし、神はエリサベトとザカリヤの願いを忘れず、聞き入れてくださったというのです。
エリサベトは、今更と思いました。年老いて、人生の終わりに近くなって、子どもを産む、そんなことができるだろうか不安でした。人々の好奇心に満ちた眼にさらされることを思うと、素直には喜ぶことが出来ませんでした。
1章28節をみますと、同じ頃、親戚のマリアも、婚約中なのに子どもを身ごもるというみ告げを受けたというのです。彼女は天使が『おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられる』とマリアに告げられると、彼女は「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」というのです。エリサベトも、マリアのように考え込んだというのです。「考え込んだ」は「頭を抱えて考え込んでしまう」という意味で、口語訳聖書は「思い巡らす」となっていました。海岸の波打ち際で、砂に埋まった貝殻を一つ一つ拾うことから来ています。これまでの人生の中に埋められていた一つ一つ出来事を思い起こし、深く考えて見ることを意味しました。すると、エリサベトは、神がこの出来事を導いておられることを確信することが出来たというのです。
エリサベトは、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と言っています(1章25節)。この「目を留めて」は、とても大事な言葉で、「心にかける、顧みる」という意味です。ルカ福音書1章48節に「身分の低い、この主のはしためにも、目に留めてくださったからです」とあります。神が顔をこちらに向けてくださる、という意味です。マリアは「神は立派な人々にしか顔を向けられない、と思っていたのに、このような貧しく小さな、はしためでるわたしに目を留めてくださった」と言って驚いているのです。その驚きをマリアの賛歌で歌っているのです。エリサベトも、「神はわたしに目を留めてくださった」という経験をするのでした。「神がわたしを覚えているしるしに誓いを立てられた」という意味です。どんなに苦しい時にも、どんなに悲しい時にも、神に覚えられている、神は必ず約束を果たして、救ってくださる、そういう思いで生きているというのです。エリサベトは、子どもが与えられるという神の約束に、戸惑い、恐れました。素直に受け入れられることが出来ませんでした。しかし、思い巡らすうちに、神が「わたしに目を留めていてくださる」という信仰に至ったのです。
エリサベトは変えられていきます。神に従い、神と共に歩んでいた、敬虔な信仰者でしたが、さらに、変えられていくのでした。彼女は神が自分を選んで、特別な祝福に満ちた使命を与えていると信じました。彼女は、6ケ月のち、同じように恐れと戸惑いの中におかれたマリアの訪問を受けます。そして、恐れ悩むマリアを励まし、慰め、マリアに先立つものとして生きるのでした。マリアの恐れと喜びを共有し、分かち合う者となるのでした。彼女は「神に出来ないことは何一つない」というみ言葉を、身をもって証ししました。神のみ旨は必ず成就し、神の言葉は、時が来れば実現することを証しする者として選ばれたのです。神は不可能を可能にして、無から有を生じさせ、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神であると、証ししたのです。
パスカルは1654年11月23日に所謂「回心」を経験しました。その体験を羊皮紙(ようひし)に書き肌着に縫い込んで、死ぬまで肌身離さずに持ち歩いていたと言われます。このパスカルの回心の出来事は、今はよく知られていますが、当時は、誰にも知れていませんでした。それは、パスカル自身が他人に話さなかったからです。とても仲の良かった妹のジャクリーヌにも話さなかったそうです。彼女は信仰あつく、兄パスカルの救いのためにいつも祈っていました。その妹にも打ち明けていないのです。そのジャクリーヌがパスカルに手紙を書いています。「本当に、罪を悔い改めた人はそんなに嬉しそうにしているはずがない。また、自分の罪について厳しく考える人は、そんなに単純に喜んでいない、悔い改めが不十分ではないか。」と言うのです。パスカルが神の真実と恵みに出会い、それを知って、喜びに満ち溢れて生きるようになった。そのパスカルの姿を見て、妹のジャクリーヌは、「お兄さん、あなたが本当に悔い改めたのなら、そんなに嬉しそうにしていたらだめだ」とたしなめたというのです。これは妹のジャクリーヌの誤りでした。それほど、パスカルの回心は豊かであったという証拠です。福音に生きる喜びは、そういう喜びの中に置かれると言うことです。エリサベトを満たしていたものも、そういう実に逞しい、確かな、全存在を包み込んだ喜びであったのです。そして、そういう信仰の喜びに満たされる、それ以上の幸いはないと言うのです。パウロは、その福音について「余りの素晴らしさに、他の一切を損とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と言います。福音の言葉を信じる喜びは、この世の何物にも替えられないと言うのです。その恵みに与りましょう。