2021年11月28日 マルコ福音書4章35-41節 「向こう岸に渡ろう」

イエスはその日の夕方、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。「向こう岸」とは、具体的には5章1節に記されているように「ゲラサ人の地方」の「異邦人の地」です。ユダヤ人は神から特別に選ばれたという「誤った選民意識」を持っていました。異邦人は神を知らない、汚れていると差別し忌み嫌っていました。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者と交わることを禁止していました。イエスが越えなければならないハードルの一つでした。「向こう岸に渡ろう」と言ったイエスには相当の決断があったと思われます。選民意識を止揚し、異邦人のために悩み苦しむ者をそのままにされない、なんとか救い出そうとするイエスの御心を読み取ることができます。
36節に「そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」とあります。この群衆は4章1節や33節には、イエスの言葉に耳を傾け、心からイエスを慕っていたと記されています。イエスに好感を抱き,イエスを慕い求める人々です。彼らはイエスを批判し集まってきたのではありません。心の底からイエスに傾倒していました。イエスは自分を慕い,受け入れてくれる人々を、そこに残して、敢えて、異邦人の地に行くというのです。人は誰でも自分を迎え入れてくれる人々を受け入れ、好意や理解をもって受け入れてくれることを求めます。しかし、イエスは違います。敬意と好意をもって慕う人々を後に残して、人々が忌嫌う異邦人のとこへ行こうと決断されるのです。
ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命をえるためである」とあります。この「世・コスモス」は神を無視し,神に敵対し反逆する者を意味します。しかし、神は、その「世・コスモス」の救いのために独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。神の御心が具体化されているところが今日のテキストです。
「向こう岸に渡ろう」と呼びかけているイエスの言葉に神の御心があります。イエスに導かれ、わたしたちもそれぞれの向こう岸に渡っていきましょう。
36、37節を見ますと、弟子たちがイエスの言葉に従って舟を漕ぎ出すと、直ぐに突風に襲われました。弟子たちは艫の方で眠っているイエスを起こし、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と悲鳴を上げていますのを見ても、この突風がどんなに激しいものであったが推測されます。わたしたちは普通イエスの言葉に従って生きるならば、いつも平安で、繁栄と喜びがあると考えます。「こどもさんびか」53番には「主にしたがいゆくはいかによろこばしき、心の空はれて光はてるよ。みあとをふみつつ歌いてすすまん」とあります。キリストに従って生きることはどんなに素晴らしく喜びに満たされ輝いているものであるかを歌っています。それは確かにそうです。しかし、それが全てではありません。むしろ,聖書はキリストに従って生きることは、世の荒波のまっただ中を生きることだと繰り返し言っています。
弟子たちは悲鳴をあげながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫び、イエスを揺り起こし、助けを求めたと言います。見栄や体裁など考えられません。必死になって、イエスに取りすがったと言います。すると、イエスは「黙れ、静まれ」と風を叱り荒れ狂う海に命じました。風は止み、海は凪ぎになったと言います。この記事は、必死にキリストに取りすがるとき、キリストは必ず助け、新しい展開へと導いてくださることを伝えています。
41節に「弟子たちは非常に恐れて『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。弟子たちは自分たちの力では何一つ解決することができませんでした。ただキリストに取りすがってとき、人知では到底考えられない救いの道が与えられました。その事実を弟子たちは互いに確認し語り合ったのではないでしょうか。ローマ8章「これらと戦って勝ち得て余りがある」とパウロは言っています。イエスはどのような苦難をも解決してくださる。「あなたがたはこの世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言するキリストが共にいて戦ってくださいます。その事実を信じなければ、イエスに従って生きることは出来ません。
40節に「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とあります。イエスは弟子たちを叱りつけているのではありません。また臆病な弟子たちに失望し呆れているのでもありません。弱い弟子たちを軽蔑したり、見捨てることはありません。共に舟に乗っていてくださり、向こう岸に渡るまで一緒に、その突風を共に経験してくださいます。弟子たちの絶望の叫びに耳を傾けてくださり応えてくださいます。わたしたちも弟子たちのように、人生で行き詰まった時、困難に打ち負かされそうになった時、悲鳴を上げながらでも、イエスに救いを求めていけばよいというのです。その時、イエスは必ず最善をもって顧みてくださいます。その事実をイエスは弟子たちを向こう岸に渡らせることによって示し証ししています。その事実を信じて歩んでいきましょう。