イエスが安息日に会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人々はイエスがどうするか見張っていました。イエスはその人を真ん中に立たせ、「安息日に律法で許されているのは,善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」殺すことか」と尋ねました。ファリサイ派の人々は黙っていました。
節に「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」とあります。この「怒って」は「憤る」という意味です。憤られたイエスに注目します。
イエスが憤ることは滅多にありません。マルコ福音書10章13節に「イエスに触れていただくため人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」とあります。ここに憤るイエスが描かれています、この「子供たち」は「小さな子」というよりも「無力な者」という意味です。「子供」は片手の萎えた男のように、自分の居場所がない者を象徴しています。つまり、イエスは人が居場所を奪われたり、無視されたり、抑圧されたりすることに憤りを覚えるというのです。イエスは無力にされた者に対してなんとかしようと、激しく心を動かされるのです。
6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。ファリサイ派の人々は安息日に癒しをするイエスを許すことができませんでした。しかし、イエスは殺されることを知りながら片手の萎えた人、居場所のない人のために、立ち上がりました。イエスは重荷を負う者、悲しみに打ちひしがれる者、孤独に苦しむ者を深く憐れみ、腸を痛める程に同情し、寄り添ってくださるのです。
受難物語のイエスの逮捕の場面では、イエスは弟子たちの先頭に立ち、ローマの兵士たちの前に進み出て、「あなたがたが探しているイエスはわたしである」と名乗り出ています。弟子たちの前に立ちはだかるイエスの姿に、イエスが捕まり処刑される代わりに、弟子たちの罪は不問にされるという当局との約束が交わされていたことが表されています。イエスは弟子たちの罪を背負ってくださり、弟子たちはイエスの犠牲によって許されたのです。イエスはわたしたちの全ての罪を背負ってくださるのです。
2章27節に「そして更に言われた。『安息日は、人(人間)のために定められた。人(人間)が安息日のためにあるのではない。だから、人の子(人間)は安息日の主である』」とあります。イエスの願っていることは、わたしたちがネバナラナイに生きるのではなく、ひとりの人間が救われることです。イエスは自分の命を捨ててまでも、ひとりの命を救おうとされているのです。そのメッセージが安息日に片手の萎えた人が癒される行動に表現されています。
3章1節に「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた」とあります。この「人」はギリシャ語で「アンスローポス」と言います。3節に「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」とあります。この「人」も「アンスローポス」です。5節にも「その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」とあります、この「人」も「アンスローポス」です。通常3節の「手の萎えた人」も、5節の「その人」も「彼」という代名詞を用いるところですが、「彼」という代名詞を使わないで、「アンスローポス・人間」を用いています。それは、「アンスローポス」は誰とも替えることのできない尊厳を持った存在であることを意味するからです。
つまり、イエスは片手の萎えた人を,一人の人間として尊重しているのです。イエスの言葉に、「全世界をもっても自分の命を損なったら、何の得になろう」という言葉があります。いわゆるto do やto have,何をしたか、何をもったかが問題ではなく、to be存在していること自体が尊厳であるといいます。人は全世界をもっても変えることの出来ない尊厳を持っているというのです。
しかし、ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人を、尊厳をもった存在であると認めることはできませんでした。彼らは身体を損なっていれば、存在の価値を見出せないのです。律法を守らない人は罪人だと交わりから疎外するのでした。つまり、人間を目的としてではなく手段として見ているのです。人間を自分のための存在としてみるのです。人間を自分たちの目的を達成するための存在としか見ることができないのです。しかし、主イエスはそのような人間を手段として見るファリサイ派に激しく抗議をしています。
イエスは命を懸けて片手の萎えた人を癒されました。どのような罪人であれ,病人であれ、イエスは彼らを見捨てることはありません。その人の在りのままを受け入れ寄り添ってくださいます。ここに死を恐れず、自分の命をかけて、片手の萎えた人に寄り添うイエスを見ることが出来ます。安息日に片手の萎えた人を癒されるイエスの姿から、どのような事態が襲っても、あなたの側に寄り添ってくださるイエスを見出すことができます。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」(詩編55編23節)。