与えられたテキストはマルコ福音書2章18-22節です。イエスがファリサイ派の人々や律法学者たちと断食について論争する場面です。18節「ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は、断食をしていた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』」とあります。断食の本来の意味は食べ物を与えてくれた神への感謝と、食べることのできない人々の苦しみを共有することでした。つまり、神への感謝と隣人への思いやりが断食の本来の意味でした。しかし、時代の経過とともに、その精神も形式も変化していきました。イエスの時代には年に一回、それも日の出から日没まで行うのが慣例でした。しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、週に2回行いました。なにも飲まず食わずの二日間で、苦しい思いをしました。彼らは良いことを行っていると、誇りと優劣感、を持つようになってきました。断食の本来の意味は神の御業を讃え、自分の無力さを認識することでありました。しかし、彼らは本来の道から逸脱し、自分たちを誇るようになりました。断食は信仰的には本質的な問題を抱えていました。
ルカ福音書18章11節に「ファリサイ派の人々は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています』」とあります。断食という律法が人を本来の目的から逸脱させ、誇らせ、同時に、他者を裁き、蔑視する差別の根源になっていることを示しています。勿論、断食自体が悪いというのではなく、それを行う人間が本来の道から逸脱していくというのです。断食という律法がもつ本質的な問題です。善いこと、立派なことを行っているのに、内側は歪んでいき、本質を失っていくというのです。
マルコ福音書10章30節に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」とあります。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛する。自分を愛するように隣人を愛する、それが信仰の核です。その信仰の核が実現するために律法が与えられたのです。しかし、律法は人間の心を歪めてしまいました。律法を熱心に守るという形において、自分を誇り、他者を見下しまう、つまり、律法は人の心を歪めるものをもっています。
ローマ信徒への手紙8章19節に「わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とあります。パウロは善い行いをしているハズなのに、その行いを誇らせ、高慢にして自己矛盾を告白しています。イエスはそのような惨めな、矛盾に満ちた者を救い出し、高慢の罪から解放し、謙虚と謙遜の道を与えて下さいます。
19節に「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はでいない。』」とあります。イエスは自分のことを花婿と言い、花婿としてこの世に来られたというのです。花婿であるイエスが共にいてくださるのだから、喜ばずにはいられないのです。イエスが共におられることは、何にも束縛されることなく、全ての罪から解放され、神の前に喜びを持って生きることができるというのです。
しかし、そのような自由と責任を持って生きることを語るイエスを取り囲む時代は暗い時代でした。バプテスマのヨハネは捕らえられ、獄につながれ,処刑されました。ローマ帝国の圧政は一段と厳しくなってきました。どこをみても世の中が良くなる希望を見出すことは出来ません。恐怖と不安の時代です。ファリサイ派や律法学者たちは、世を憂い、ますます律法主義になり、息が詰まるような閉塞した時代がやってきました。弱い者や病人は虐げられ、年老いた者や子どもたちは虐待されていました。社会全体が病んでいました。しかし、そのような世であっても、キリストと共にあるならば、喜びを見出すことが出来、罪に束縛されないで、自由と責任を持って生きることができる、というのです。キリストを花婿として迎え,新しい関係を作るならば、喜びと生きる希望が与えられる。世の中がどんなに暗くても、不義と虚偽に満ちていても、キリストが共にいてくだされば,喜びと希望に変えられると言うのです。
21節以下で、二つの喩えが記されています。「新しい布切れと古い服」「新しいぶどう酒と古い革袋」の喩えです。新しい布は強く、古い服は弱い。古い服に新しい布を縫い付けると、新しい布切れが強いために、古い服は破れてしまう,と言うのです。新しいブドウ酒は発酵していますから、古い革袋に入れておけば、古い革袋を破ってしまいます。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れておかなければなりません。つまり、新しい布であり、新しいブドウ酒であるイエスの教えを受け入れることは、古い服に新しい布を縫い合わせる、古い革袋に入れる仕方では、納めきれない。布全体、革袋全体が新しくならなければなりません。イエスに出会って新しくなるとはそう言うことです。一部が新しくなるのではなく、存在全体が新しくなる。イエスによって全く新しい人間に創造されることを意味します。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節に「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。古い自分は断ちきられ、キリストに結びつき、全く新しくされる。そういう生き方をしたいものです。