マルコ福音書は、ガリラヤ湖の漁師であったペトロたちを弟子に招かれるイエスを、また、重い皮膚病の人を清めるイエス、中風の人を癒されるイエスを描いています。17節に「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である。わたしが来たのは,正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」とあります。イエスがこの世に来られた使命と目的を表明しています。10章45節には、「人の子は(イエスのことを意味する)仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのである」とあります。ルカ福音書19章10節には「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とあります。「来た」はギリシャ語で「エールセン」と言い,イエスが救い主としての自覚を告白しています。「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉もイエスの人格と個性を表しています。だれでも正しい人、優秀な人,丈夫な人を招きたいと思います。それが常識的です。しかし、イエスは違っています。正しい人ではなく、罪人を招く、それも捜し出してと言います。
イエスの信仰は逆説です。「逆説」はギリシャ語で「パラドクサ」と言います。「パラ」は「反して」、「ドクサ」は「考え、意見」で、「考えていること、思い込んでいることに反している」という意味です。つまり、いつも考えていること、思い込んでいることに反すること、逆を意味します。イエスは罪人に近づき招き,罪を赦されるのです。それが主イエスの人格、信仰です。
14節に「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。「見かけて」はギリシャ語で「エイドン」と言いますが、イエスがどういう救い主であるかを表す大事な言葉です。イエスがレビに特別に関心を持ち、思いを向けていたことを意味します。レビは徴税人です。イエスがレビの家で、徴税人と一緒に食事をしている姿を見つけたファリサイ派や律法学者たちは、「なぜ,あのような者たちと一緒にいるのだ」と言ってイエスを厳しく批判しました。徴税人と交わっているイエスを赦すことが出来なかったのです。徴税人は人々から嫌われ、さげすまされ、憎まれ、一緒に食事をすることを厳しく禁止されていました。
しかし、イエスは違いました。イエスは徴税人のレビに暖かい愛の眼差しを向けています。イエスは罪人、徴税人、重い皮膚病の人、中風の人に特別な思いを持っているのです。神の価値と肯定をおいているのです。イエスは深く憐れみスプランナゼニサイ、自分のお腹を痛めて、激しく共鳴するのです。
イエスは「一匹の迷える羊」のたとえ話を教えられました。百匹いた羊の中から、一匹の羊が迷い出てどこかに行ってしまい、羊飼いを大変に困らせたと言うのです。しかし、羊飼いは九十九匹の羊を残して、一匹の羊を捜し出すまで苦労をしました。山を越え、谷に下って、見つけ出しました。見つけたら,喜んでその羊を胸に抱き、家に帰ってきて、友達や近所の人々を集めて「見失った羊を見つけたので,一緒に喜んでください」と言って喜んだといいます。この喩え話もイエスがどういう方であるかを伝えています。イエスは一人の罪人の滅びを見逃さない方であり、一人の罪人が悔い改め、神に立ち帰るのを待っておられる方であることを伝えています。
マルコ福音書3章16節に「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。」とあります。この「アルファイの子ヤコブ」が「レビ」であると言われます。確かなことは分かりませんが、レビは初代教会の中で大切な役目を担っていたようです。レビはたびたび自分のことを証ししたのではないかと思われます。自分はかつて徴税人であったことを告白したと思われます。徴税人から救われたことを告白しました。自分がこうして弟子として生かされているのは、ひとえにイエスの慈愛よる以外にはないと語りました。この徴税人であったわたしをイエスは深い憐れみをもって救い出してくださったというのです。
徴税人アルファイの子レビは主イエスの深い憐れみを受け入れました。そして、キリストは必ず素晴らしい人生を開いてくださいますと語りました。「今日の教会の課題は、キリストを深く理解し、それを身に着けていくことである」と言われます。徴税人レビの救われた喜びをわたしたちも生活の中で経験し、喜びを伝えるも者になりたいと思います。