2021年10月10日 マルコ福音書1章40-45節 「イエスに結びついて」

与えられたテキストは一人のらい病人(重い皮膚病)が癒されるという物語です。一人のらい病人が出口の全く見つからない厳しい状況の中で、他人に、近づいてはならなういという律法を破ってイエスに近づいて来ました。40節に、「さて、らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』」と言った。イエスが深く憐れんで,手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、らい病は去り、その人は清くなった」とあります。
「御心」は「意志する、you are willing」という意味です。言い換えれば、「あなたが意志すれば、望めば、わたしを清くすることが出来ます」となります。「よろしい」は「わたしは意志する、I am willing」という意味で、「わたしは意志する、清くなれ」となります。つまり、らい病人のひたむきな思いと、それを受け止めるイエスの信仰が描かれています。
「深く憐れんで」は、らい病を患っている人に対するイエスの深い思いを伝えています。ギリシャ語で「スプランクニゼスサイ」と言い、「スプランクナ」は「はらわた,腸」いう意味で、人の痛みを見て,お腹を痛める、はらわたをゆさぶられる、痛みを同じにする、共感することを意味します。マタイ福音書9章36節の「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」にも出てきます。イエスが弟子たちを選び、派遣する理由を述べています。ルカ福音書10章33節の「ところが、旅していたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って来て傷に油とブドウ酒を注ぎ、・・・」にも出てきます。強盗に襲われ傷ついた人の痛みを自分のこととして、激しく心を動かされる心優しいイエスが描かれています。 
ニュ-・イングリシュ・バイブルは「スプランクニゼスサイ」を「激しく憤って」と訳しています。イエスは、人を苦しみと悲しみに閉じ込めている力に対して激しい憤りをもたれるというのです。イエスは病める人に寄り添い、深い共感をもち、激しく戦ってくださいます。そして、わたしたちに先だって、その戦いに勝利をしてくださるというのです。
ヨハネ福音書16章33節に「あなたがたにはこの世を生きる限り、苦難がある。苦難の連続である。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。イエスは人を苦しめる力に激しく憤って、戦ってくださいます。そして、わたしたちの先駆けとして打ち勝ってくださるというのです。
41節「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、(わたしは意志する)。清くなれ』と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった」とあります。らい病人は他の人に近づくことは出来ません。また、らい病人が自ら近づくことは許されません。律法と規定で厳しく禁止されていました。しかし、イエスはその律法を破ってらい病人に触れたというのです。この激しい行動は、スプランクニゼニサイ・腸が激しく動かされる、共感から生まれています。腸が激しく動かされる思いから生まれた行動です。自分の益になる、名声を得る。そう言う思いは一切ありません。ただ純粋に、スプランクナゼニサイ・はらわたが傷むほど同感する。イエスの行動はそこから起こっています。「触れる」は「引き受ける」という意味です。らい病人の苦しみと痛みをイエス自らが引き受けたという意味です。
イザヤ書53章3節に「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病い、負ったのはわたしたちの痛み、・・」とあります。イエスはわたしの病と負い、苦しみを担ってくださるのです。痛み苦しんでいるわたしたちに寄り添ってくださるのです。
44節に「厳しく注意して、言われた。『このことをだれにも話してはならない』。しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ,言い広め始めた」とあります。彼はイエスかららい病を清められたことを誰にも話してはならないと厳しく命じられていました。しかし、彼は話さずにはいられなかったというのです。孤独と絶望の中から生きかえらされた、その喜びと福音を他の人に言い広めなければいられなかった。黙っていることは出来なかったと言うのです。5章20節に、悪霊に取りつかれ癒された人が、イエスの救いの業を言い広めたと記されています。絶望と死から救い出してくださるイエスを、語らずにはいられないのです。イエスが言い広めてはいけないと命じられても、絶望の中から救い出された喜びを自分の内に留めておくことは出来ない、語らずにはいられなかったのです。それが福音です。
わたしたちも主イエスに触れて頂き、癒され、勝利のイエスに結びつけられたものです。その喜びの福音を「人々に言い広めたい」と思いが募ります。外側から命令され、ネバナラナイからではなく、内側から起こってくる福音の喜びを伝える生涯でありたいと思います。

メッセージを読んで下さり感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りします。