与えられたテキストは、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟がイエスの弟子に招かれたところです。16節に「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」とあります。イエスとシモンとアンデレの出会いは、イエスが二人を御覧になったところから始まり、弟子になる根源になっています。シモン・ペトロをはじめ、四人はガリラヤ湖の漁師で、厳しい環境の中で働き、貧しい生活を送っていました。その四人にイエスが目を留められたのです。つまり、律法学者や祭司長たちではなく、貧しく見栄えのしないガリラヤの漁師たちが招かれたのです。どうして、貧しく無学な漁師が弟子に招き出されたのか? その理由は分かりません。ただ言えることは、弟子になるには職業や身分や学歴は関係がないということです。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章23節に、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを想い起こしてみなさい。人間的にみて知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが神は知恵ある者に恥をかかせるため、敢えて世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、敢えて無力な者をえらばれました」とあります。神の選びの根拠や理由はわたしたちの側にあるのではなく、神の側にあるというのです。
17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨て従った」とあります。二人はなんの疑いも迷いもなく従ったのではありません。シモン・ペトロはフィリポ・カイザリアで「サタンよ、ひきさがれ」と厳しく叱責されています。また、三度も否定し,裏切っています。しかし、彼らは挫折と危機を乗り越え、最後までイエスについていきました。それはシモン・ペトロの人間的な力ではありません。そのような力に頼っていたなら、ペトロが最後までイエスに従うことはできなかったはずです。最後までイエスに従ったのは、イエスがペトロを御覧になり、選ばれ、招いてくださったからです。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選び、立てた」とあります。わたしたちの選びに先立って,イエスの招きと選びの事実があるのです。その事実を徹底的に押し進めていくとき、イエスに従っていくことができるのではないでしょうか。
イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけています。原語は「来なさい。後ろに、わたしの」となっています。短い言葉ですが、イエスの言葉には不思議な力があります。イエスの言葉は聞いて信じる者の心のうちで働きます。「言葉」は、ヘブル語で「ダヴァール」と言い、「出来事」という意味です。イエスの言葉は聞く者の中で、何かが起こり、出来事が生まれるのです。
創世記12章1節に「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』」とあります。主の言葉がアブラハムに臨み、アブラハムを立たせ、出立させました。神の言葉は強制や命令ではなく、アブラハムの心の内側に入り、アブラハムを内側から促しました。それは全く内発的な行為、全くの自由と責任から生じる行為です。神の言葉はアブラハムを新しく旅立たせました。イエスの「来なさい。後ろに、わたしの」という言葉は、ペトロをして,新しい世界に立ち上がらせるのでした。
11節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。「網」は漁師にとって最も大事なものです。その大事な「網」を捨てて従ったというのです。19節に「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを舟の中で網を手入れしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。イエスに「わたしについて来なさい」と言われると、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、網を捨て、父親を舟に残して、イエスの後に従ったというのです。人間的に見れば不人情な理解に欠けるところがあります。しかし、信仰的に読めば、大事なメッセージが込められています。つまり、最も大事なものを捨てなければならないという不条理なことがあるいうのです。アブラハムは故郷を、家を、父を捨てました。今までの生活や慣れ親しんだものを捨ててなければなりませんでした。それまで彼を束縛していたものから解放され、自由にされる恵みを受けるというのです。
イザヤ書40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とあります。鷲は上昇気流を見つけて,空高く舞い上がる。その姿に圧倒されると言われます。鷲は全てのものから解放され,天高く舞い上がる自由と希望の象徴です。「主に望みをおく者はこれまでの古い自分から解き放たれ、新しい生活に踏み込んでいけるというのです。
イエスの言葉は、わたしたちをすべての罪から解き放つ力があります。イエスの言葉は、ベトザタの池で38年間も動くことが出来なかった人を立ち上がらせる力がありました。生まれながら足が不自由なために美しい門のそばに置かれていた人は、イエスの言葉で立つことができ、新しい世界に、神の恵みのなかに生かされました。イエスはあらゆる束縛から解放され、自由に生きよと言われます。古い自分から解放され、新しい人に変えられます。その主の招きの言葉に応えていきたいと思います。
メッセージを読んで下さり感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りします。