イザヤ51章は、バビロン捕囚の中で語られた預言者イザヤの言葉です。バビロンのネブカドネツァル王は、エジプトのファラオのネコをカルケミシュで倒し、南下をはじめ、南ユダに侵略し、都エルサレムを1年半包囲し、滅ぼしました。その時の様子を歴代誌下36章は、「若者も、おとめも、白髪の老人も容赦なしに、剣にかけられた。神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿は灰燼に帰し、重要な建物はことごとく破壊された。剣を免れて生き残った者は捕らえら、バビロンに連れ去られた」と記しています。時のユダの王ゼデキヤは両眼をえぐり取られ、足枷を填められ、バビロンに連行されました。所謂バビロン捕囚です。400年間続いたダビデの王国の終熄し、不敗信仰の根拠であったエルサレム神殿は潰滅しました。バビロンに連行された者も、エルサレムに残った者も、エゼキエルが「枯れた骨」と表現しているように、神に選ばれた民という誇りも希望も失い、正に生きた屍のようになりました。
捕囚の民の精神状況を記している「哀歌」の1章3節に「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難の狭間に追い詰められてしまった」と、1章20節には「ご覧ください。主よ、子の苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い、内には死が待っています。わたしはこうして呻き続け、心は病に侵されています。幼子は母に言う、『パンはどこ、ぶどう酒はどこ』と。都の広場で傷つき、衰えて、母のふところに抱かれ、息絶えてゆく」と記しています。敗戦の傷は捕囚から60年経っても癒されません。子どもは飢餓で死んでいく、大人は生きていてもしょうがないと呟き、絶望しています。イザヤは神から絶望しているバビロン捕囚の人々に神の言葉を語るようにと命じられました。
1節に「わたしに聞け、主を尋ね求める人よ。主を尋ね求める人よ。」、4節に「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。」、7節に「わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えに心におく民よ」とあります。「わたしに聞け」の「わたし」は「ヤハウェ・主なる神」のことです。「わたしはいるもの、わたしはいる。わたしは必ずあなたと共にいる」と言われる主なる神・ヤハウェです。捕囚の人々は主ヤハウェが共にいる事実を忘れ、希望を失い絶望していたというのです。
13節に「なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ、天を広げ、地に基を据えられた主を忘れたのか」とあります。捕囚の人々は、イザヤが「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。信じなければ、立つことは出来ない。」と言っているのに、窮地に立たされると、バビロンに走り、都合が悪くなると、エジプトに使いを出し援助を求めるというのです
2節に「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」とあります。普通は「アブラハム、イサク、ヤコブ」というところですが、アブラハムとサラを並べています。それに意味があります。アブラハムとサラは、カルデア出身です。カルデアはバビロンのことです。つまり、バビロンはアブラハムの故郷であるというのです。アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」という神の言葉を聞き、旅立ちました。バビロンはアブラハムの旅立ちの場所、アブラハムの原点であるというのです。つまり、イスラエルの人々は捕囚という不運な出来事を通して、アブラハムとサラの原点に戻された。アブラハムが新しい旅立ちをしたように、捕囚の人々も新しく旅立ちをし、出直すために原点に戻された。つまり、神の約束の言葉に立ち返れ、というのです。
2節に「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」とあります。原文は「ひとりであつた」が文頭にあり、「ひとり」を強調しています。アブラハムの孤独を思い起こせているのです。父のテラは死に、ロトは離れていき、ハガルとイシュマエルは追い出され、イサクは犠牲として献げよと命いざれた。しかし、アブラハムは孤独に陥り心弱くすることはありませんでした。神の約束の言葉を信じ、そこに希望をおきました。唯ひとりであっても、絶望することはありませんでした。「わたしはいる者、わたしはいる、あなたが何処に行こうと、何処に置かれようと、あなたと共にいる」という主なる神ヤハウェを信じたのです。
詩編121編1節に「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」とあります。バビロン戦争に敗れ、廃墟とされたエルサレムや神殿を見るのではなく、主なる神に目を注ぎなさいと言うのです。見上げる山々は、生命を拒否するかのように、厳然と立ちはだかっている岩山です。しかし、それを越えた神の救い、神の希望が与えられるというのです。
11節に「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌を歌いながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ネブカドネツァルによって徹底的に破壊されたエルサレムに喜びの歌を歌いながら帰って来るというのです。今は悲しみと嘆きしかないかも知れないが、神は悲しみと嘆きを喜びに変える時を与えるというのです。今は悲しみ苦しんでいるが、喜びの歌を歌いながらシオンに入る。その時が来るというのです。神の約束と未来を信じて、希望を持って歩みたいと思います。
メッセージを読んで下さり感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りします。