2021年5月23日 エゼキエル書37章1-13節 「絶望と希望」

 ペンテコステです。ペンテコステの語源は「ペンタトウーフ・五十」という意味で、主イエスが復活されてから50日、昇天されたイエスが霊になって降られたことを記念する日です。「霊」は、ギリシャ語「プニューマ」、ヘブル語で「ルーアッハ」と言い、「風、息」という意味で、目に見えないだけで、確かに存在します。風のように、木が揺れることで存在が明らかになるように、霊を受け人が生まれ変わることによって確認できるというのです。使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。弟子たちが霊を受けると、主イエスの証人になるといいます。つまり、主の聖霊が人を新しく生まれ変わらせるというのです。
預言者エゼキエルは、第一回の捕囚(BC598)の時、エルサレム神殿の祭司でしたので、バビロンへ連行され、5年後、預言者に召されます。その後、妻の死という不条理な出来事に襲われます。24章15節に「わたしはあなたの目の喜び(妻のこと)を、一撃をもってあなたから取り去る」、18節に「朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたしの妻は死んだ」とあります。バビロン捕囚の悲しみに、追い打ちをかけるような悲劇と不条理な出来事が起こります。16節に「あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」とあります。大変厳しい言葉がエゼキエルに臨みます。エゼキエルは神の御心が分らなかったのではないかと思います。しかし、霊の働きによって、受け入れることが出来るようになります。
ヨハネ福音書13章の洗足のとき、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗われるのですか。」と言いました。イエスは「わたしのしていることは、今あなたに分からないが、後で、分かるようになる」と答えました。今は分からない、闇の中におかれているが、後に、霊に導かれる意味が分るようになると言いました。
BC587年、エルサレムは、ネブカドネツァルによって征服され、ゼデキヤ王は捕らえられ、両眼をえぐられ、鎖に繋がれ、多くの人々と共にバビロンに送られました。二回目のバビロン補囚です。37章11節に「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」とあります。捕囚の人々は空虚と孤独で絶望し、精神的に退廃しました。この時、エゼキエルは、妻を失う苦しみの経験は、この日のためであったと悟ることが出来ました。つまり、この苦しみは、悲嘆と絶望に陥っている人々に寄り添い、悲しみを共有し、慰め、力づけ、希望を与えるための苦しみであると理解するのでした。
エゼキエルは霊に導かれ、深い谷間に入って行き、多くの枯れた骨が乱雑に積み重ねてあるのを見せられました。「枯れた」は「干からびた、命のない」という意味で、捕囚の人々の絶望的な状況を表しています。神は「これらの骨は、生き返ることが出来るか」と尋ねます。勿論、エゼキエルは「出来ない」と思っています。神は絶望するエゼキエルにかまわないで、「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」と命じます。エゼキエルは神の言葉に促され、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」と言いました。
9節に「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ。預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。」とあります。「霊を吹き込むと、生き返る」と言います。「生き返る・カーヤー」は「起き上がる、回復する、希望を見出す」という意味です。絶望していた者が希望を与えられ、生きる意味を失っていた者が、生きる目的、意味を与えられたというのです。
2節に「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」とあります。「甚だしく枯れていた」は「もう駄目だ」という意味です。その「駄目だ」と思う者に、霊が吹き込こまれると、生き返る。絶望の向こうに希望があると言うのです。
「エゼキエル」は「神が強くする」という意味です。エゼキエルは、バビロン補囚の悲劇と妻を失うという不条理を経験し、「もう駄目だ」という思いにさせられました。しかし、強くする神に出会い、霊を注がれ、粘り強く、竹のようにしなやかさを与えられる経験を得ました。つまり、エゼキエルは希望を見いだせないで、苦しんでいる人に寄り添うように使命と役目を与えられました。
讃美歌533には「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの愛があるから」とあります。作詞者は高橋順子さんで、小学2年生のとき骨肉腫で亡くなられました。短い生涯でしたが、難病の闘いに勝利した生涯でした。くじけそうになるとき、イエスさまを一層身近に感じ、慰め主の聖霊が降って来る信仰的経験をされたといいます。何度も「もう駄目だ」という思いにされた。しかし、人生は「ゼロ」から出発するというのです。聖霊なる主イエスは、人の望みの尽きるところに、立っておられます。可能性が終わったと思えるところから、神の可能性が始まると言います。その事実を信じ受け入れ、従いたいと思います。絶望の先にある希望を見出す。それがペンテコステです。