2021年5月16日 列王記上17章8-24節 エフェソの信徒への手紙4章21-24節「新しい人を着る」

 与えられたテキストは列王記上17章8-24節のエリヤ物語です。預言者エリヤは北イスラエルの王アハブのバアル宗教政策や治世を厳しく批判したために、激しい弾圧を受けました。9節に「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養う」とあります。エリヤは神が「やもめに命じて養う」と言われても、直ぐ信じることが出来ませんでした。ルツ記のナオミとルツも寡婦で、農夫が畑に落として置いてくれた落ち穂(寡婦と孤児を保護するための律法がありました)を拾わせてもらって、やっと生き延びることが出来ました。社会的援助がなければ生きられない存在でした。やもめ(寡婦)は当時の社会の中で最も弱い立場で、エリヤを助けることなど考えられません。その貧しい寡婦によってエリヤは養われると神は約束されるのです。
エリヤがセレプタの入り口に行くと、薪を拾いに来ていた寡婦に出会います。エリヤは、「器に少々の水を持って来て、わたしにのませてください」と声をかけ、続けて「パンも一切れ、手に持って来てください」と頼みました。寡婦はいぶかりました。彼女には人にあげるパンなど全くなかったからです。それどころか、家に残っている最後のわずかな粉と油でパンを作り、それを食べて息子と一緒に死のうとしていたのです。彼女はエリヤを助けてあげたいという思いはありましたが、何もできません、何もありませんと失望落胆しました。
エリヤは、その寡婦の言葉が聞こえないかのように、「その僅かな小麦粉で、わたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と言いました。寡婦はエリヤの言葉に従い、小さなパン菓子を作り、エリヤに差し出しました。すると、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油も尽きず。彼女の家の者も、エリヤも幾日も食べ物に事欠かなかった」というのです。寡婦が最後の粉で焼いた「小さなパン菓子」は、小さくて弱い存在の象徴です。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節に「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、敢えて世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、敢えて世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無きに等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を敢えて選ばれたのです。」とあります。エリヤ物語は、神は救いのために、無きに等しい小さな、弱い存在を敢えて用いるというメッセージです。
17節に「その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。」とあります。原文には「ところが」訳せる接続助詞があります。意訳すると、彼女は息子と心中しようと覚悟していましたが、エリヤに助けられました。ところが、その息子が病気に罹り、亡くなってしまったというのです。彼女とって全く不条理な理不尽な出来事です。彼女は恨みを抱き、「あの時、死んでいたら、こんな不幸や苦しみを味合わなくてすんだのに」と呟き、「あの時、殺してくれたら良かったのに、何故助けたのか。」と不満を漏らしました。ところが、エリヤは「あなたの息子をよこしなさい」と言い、彼女から息子を受け取り、借りていた屋上の部屋に上り、自分の寝台に寝かせて、子どもの上に三度身を重ねて、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈りました。すると、不思議なことですが、息子の命は元に帰りました。エリヤは母親に「あなたの息子は生きている」と言い、息子を返しました。母親は「今わたしは分りました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と言いました。この「真実・エメス」は「神の変わらない愛、恵み、赦し」を意味します。彼女が恨んだことや憎んだことを赦してくださる神の赦しと真実を信じることが出来たのです。
22節に「主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子どもは生き返った」とあります。「返る」は「再び、結ばれる、再結合」という意味です。神と、一旦、結びつき離れましたが、再び、結びつくことです。離れていた者が、再び結びつけられた。神は、神との再結合を起こさせます。また、何かの理由で、離れ、引き裂かれた者を再び結び合わせることを起こします。
8節に「また主の言葉がエリヤに臨んだ。『立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる』とあります。「そこで」は、原語では「栄誉、賞賛を与えられる」という意味です。意訳すると、彼を養わせ、神の栄誉が与えられる。シドンのサレプタは地中海沿岸にあるフェニキヤの町で、バアルの神礼拝が盛んに行われ、汚れた、忌まわしい場所です。しかし、神は、穢れたシドンのサレプタを神の名誉、賞賛、栄光を表すところに変えられるというのです。エフェソの信徒への手紙4章21節に「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。神は古い罪に汚れた場所を栄光の場所に変えられます。古い人を脱ぎ捨て、罪を赦され、全く新しくされたことを信じて希望をもって、前に向かって歩み出したいと思います。