2021年4月11日 マタイ福音書12章46-50節 「主イエスに繋がる」

 与えられたテキストはマタイ福音書12章46-50節の「イエスの母、兄弟」です。46節に「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』と伝えた」とあります。この「外に立つ」の「立つ」は「立ち尽くす、呆然自失して立つ」という意味です。平衡記事のマルコ福音書3章31節には「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼び寄せた」となっています。夏目漱石は「門」で、「人間は本質的に外に立つ存在だ。内側は孤立し、絶望している」と言っています。マタイ福音書は「外に立つ」という言葉に強調点を置き、イエスの母や兄弟たちは孤独で疑い不安の中にあるというのです。
マルコ福音書6章3節に「この人は、大工ではないか、マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」とあります。「姉妹たち」とありますが、マタイ福音書では出てきません。父親のヨセフの名前はありませんから、すでに亡くなっていたと考えられます。イエスが長男で家族の中心的存在でした。「母と兄弟たち」、家族全員でイエスを捜しにナザレから来たのですから、余程のことがあったと考えられます。家族の中心であったイエスが突然、神の国の宣教のためと言って、家族や故郷を捨てるように出て行きました。それは母マリアや兄弟にとって大変ショックな出来事でした。彼らはイエスの言行を理解出来ないで、不安に襲われました。それに輪をかけるように、世間からは律法を犯す違反者、悪霊に取りつかれている乱暴者と言われ、さらに、律法学者やファリサイ派の人々がイエスを殺そうとしていることを聞き、母マリアと兄弟たちは一層不安になり心を痛めたと思われます。マルコ福音書3章21節には「身内の人たちは、イエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われたからである」とあります。マリアと兄弟たちは、イエスを信じることが出来ず、恐れと不安の中で絶望したのではないでしょうか。それが「外に立つ」という表現になっていると思います。
母マリアと兄弟たちは、自分たちの方からイエスのいる会堂の中に入って行かず、イエスが外に出てくるべきだと考えています。その意味では、母マリアと兄弟たちもイエスを拒否するファリサイ派の人々や律法学者と同じです。つまり、自分たちは変わらないで、イエスが変わらなければならないというのです。イエスに変わることを求めて、自分たちが変わろうとしないというのです。
49節に「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とあります。7章21節には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とあります。この「御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」の「行う」は、ギリシャ語で、「ポイエオー」と言い、「繋がる、求める」という意味です。因みに、ヤコブの手紙2章14節の「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。・・・・、行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とあります。「行い」を強調するヤコブの手紙の「行い」は、ギリシャ語で「エルゴン」と言って、マタイ福音書の「ポイエオー・天の父の御心を行う」とは違います。50節を意訳すると、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心に繋がり、求める人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」となります。
「わたしの天の父の御心を行う人が」の「御心」は、本文では定冠詞「その」がついています。つまり、限定された御心というのです。ヨハネ福音書6章39節に「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人の終わりの日に復活させることだからである」とあります。天の父の御心は、一人も失わないで復活させ、信じる者が永遠の命を得ることです。その天の父の御心に繋がり、求める人が、わたしの兄弟、姉妹、母であるというのです。
「わたしの母、兄弟、姉妹である」の「ある」は、ギリシャ語で「エイミィ」と言って「新しく存在する、生きる」という意味です。意訳すると、「わたしの天の御心に繋がる人が、わたしの兄弟、姉妹、母として新しく存在し、生きる」となります。ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。主イエスに繋がると新しい存在と関わりが始まるというのです。新しい結びつき、つながりを求めていきたいと思います。