与えられたテキストはマタイ福音書12章15-21節です。15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。イエスは、安息日の律法を破って、片手の萎えた人を癒やされました。そのためにファリサイ派の人々は、イエスを殺そうと相談を始めました。イエスは身の危機を感じて、「立ち去られた」と言うのです。この「立ち去る」は「人目を避ける、退く」などの意味があります。イエスは恐怖心から逃げたのではなく、ある意図をもって退いた、と言うのです。
15-21節の断片は、マタイ福音書独自の記事で、マルコ、ルカにはありません。それだけにマタイ的な信仰が良く表わされていています。イザヤ書を引用し、イエスは第二イザヤの苦難の僕であるというキリスト論を展開しています。
19節に「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」とあります。マタイはイザヤにない「彼は争わず」を文頭に置いて、「争わないキリスト」を強調しています。
イエスには、12人の弟子がいました。その中に「熱心党のシモン」がいました。「熱心党」は「ゼロータイ・匕首(あいくち)」という意味で、「暗殺者、テロリスト」です。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ」がいました。彼らは「ボアネルゲス・雷の子」と呼ばれていたと言います。つまり、いつ怒りが爆発するか分からないと恐れられた者のことです。イスカリオテのユダもいました。イエスも「12軍団以上の天の軍勢を呼ぶことができる」と言い、戦おうと思えばいつでも戦えました。しかし、キリストは一切争うことをしませんでした。ペトロが、イエスを捕らえに来た大祭司の手下の耳を剣で切り落としたとき、「剣を納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と諭しています。「剣」は「怒り、戦う心」を意味します。「怒り」を納め、争わないキリストです。
ある哲学者が「キリストの教えは敗北者の教えだ、弱者と奴隷の宗教だ、精神的アヘンだ」と批判中傷しています。しかし、イエスはどのように批判されても、争い戦いません。イザヤ書53章7節に「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」とあります。イエスは沈黙して不条理を受け入れています。
18節に、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」とあります。「わたしの選んだ僕」の「僕」はギリシャ語で「パイス」と言い「奴隷、給仕役」という意味です、ヨハネ福音書13章には、奴隷のように弟子たちの足を洗うイエスの姿が描かれています。
第Ⅱイザヤは、バビロン捕囚時代に活躍しました。その時代に待望されたメシアは苦しめているバビロン帝国を打ち倒し、イスラエルの民を捕囚から解放する絶対的な権力をもつ王的メシアでした。イザヤ書にあるように、バビロンを倒し、捕囚の民を解放したキュロスをメシアと期待しました。しかし、キュロスは、解放後イスラエルを力で支配しました。その意味では、キュロスは真のメシア・救い主ではありませんでした。見よ、神の選んだ奴隷。わたしの心に適った愛する者といいます。マルコ福音書12章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。イエスは王のように仕えられるためではなく仕えるために、わたしたちの贖いとして自分の命を献げるために来たというのです。
20節に「傷ついた葦を折ることのない、消しかかった灯心を消すことのない」とあります。この「葦」は、ガリラヤ湖に群生し、漁師を困らせました。「あし」は「悪、忌まわしい」という意味で、「よし」に変えられるほど、うとんじられる存在です。傷ついた葦は捨てられ、火で燃やされてしまいます。しかし、キリストは、傷ついた葦を折ることはない。添え木をして生かすというのです。また、ふっと吹けば消えてしまう灯火を消さないというのです。意訳すると「決して折らない、決して消さないと、イエスは強く決意した」となります。「葦を折らず、灯心を消さず」という消極的なことではなく、積極的に傷ついた葦を立たせ、くすぶった灯心を明るく輝かすというのです。「安息日に、羊一匹しか持っていない人の羊が、井戸の中に落ちたら、助け出さないだろうか。いや、何をしてでも、助け出す」と言って、片手の萎えた病人を癒やしました。自分の命を捨てて、弱い者を救うキリストです。
18節に「彼は異邦人に正義を知らせる」とあります。「正義」は「真実、公平、愛」を意味します。イエスは真実な愛を「傷ついた葦を折らず、消えかかった灯火を消さない」ことで明らかにされました。マザー・テレサは、路上で行き倒れになって、死を待つ人の傍らに座り、慰めと励ましを与えました。「あなたは掛け替えのない命をもっている。あなたがこの世に生きているということは、真に貴いことだ」というイエスの言葉を伝えました。マザー・テレサを真の愛に生かしたのは、キュロス王、皇帝アウグストゥス、ヘロデ王の出会いではありません。傷ついた葦を折ることのない、消えかかった灯心を消すことのないイエスに出会ったからであります。スプランクニゼニサイ・腸、人の痛みに心を激しく動かしてくださるイエスには、絶望している、深く傷ついている人を活かす力があるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節に「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中で完全に発揮されるのだ』と言われた。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱いときにこそ強いからです」とあります、「わたしが弱いときにこそ強い。なぜなら主イエスが共に働いてくださるからです。主イエスは神の力をもって寄り添ってくださいます。だから勇気と希望を持って前進しましょう。