与えられたテキストはマタイ12章1-14節です。イエスと弟子たちは安息日に麦畑を通っていたとき、空腹に耐えきれず、麦の穂を摘んで食べました。それを見つけたファリサイ派の人々は、「安息日にしてはならないことをしている」と激しく抗議しました。14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。イエスと弟子たちの行動は、ファリサイ派にとって、重大な律法違反であって、決して見逃すことはできないと言うのです。
安息日の律法は、モーセ十戒から始まっています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。主は、七日目に休まれて、安息日を祝福して聖別された」とあります。神は、全てを創造されて、「極めてよかった」と肯定しました。また、神は土で造ったアダムに、神の息を吹き入れました。つまり、安息日は命の息を注がれる特別の日、喜びの日、肯定する日でありました。しかし、イエスの時代には本来の安息日律法の精神は失っていました。
バビロン捕囚から帰還したユダヤ人は、ユダヤ教と神殿の再建に取りかかりました。その理念はユダヤ教の律法化でした。捕囚は律法違反と罪の裁きの結果と解釈し、二度と捕囚のような不幸な出来事を起こさないために厳しい律法と戒律を定め、厳格に守っていかなければならないと考えました。細かい祭儀や礼拝の形式、汚れからの浄め、異邦人との雑婚、異邦人と交わりの禁止などの律法を定め、厳格に守り、律法主義、形式主義、教条主義になっていきました。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたという些細な行動が「いかなる仕事もしてはならない」という律法に触れるから許されないというのです。
それに対して、イエスはダビデ王の故事を引用して、反論します。3節に「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちもたべてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。』」とあります。この「罪」はギリシャ語で、「アナイトス」といい、「律法違反」を意味します。所謂、ハマルティアの罪ではありません。安息日の掟を破ってもハマルティア・罪にならないと言われるのです。そこにイエスの信仰の新しさ、自由さ、律法主義を超える福音があります。
7節に「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」とあります。この「憐れみ」は、ギリシャ語で「エレオス」といい、「慈悲、愛」を意味します。「慈しみ」は「他者に平安・安らぎを与える」という意味で、「悲」は「他者の苦しみに同情し、苦しみを取り除く」という意味です。つまり、イエスの神は裁きの神ではなく、愛と許し、恵みを与える慈愛の神です。
11節に「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われます。「善い」ギリシャ語で「カロース」といい、「神に喜ばれる」という意味です。ローマの信徒への手紙12章2節に「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあります。律法が絶対ではなく、神に喜ばれる救と愛が最優先であると言うのです。マルコ福音書2章27節には「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」とあります。本質的なことはひとりの人間が救われることであり、ひとりの人間が救われるためには律法を破ってもよいというのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」の「憐れみ」は「自由」という意味があります。「律法からの自由」です。ガラテヤの信徒への手紙5章1節に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながってはなりません」とあります。キリストはわたしたちの自由のために十字架についてくださったというのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、・・・」の「求める」は「好む、望む」です。イエスが望み好まれことは、律法主義から解放され、自由を得ることであるというのです。
栢木哲夫先生は、ファリサイ派の人々のことを、「ネバナラナイ症候群、ネバナラナイを生きる根拠にしている人々のことである。彼らは完全でなければナラナイ、努力しなければナラナイ、強くナケレバナラナイを規範としていました。しかし、人間は完全に生きられない。生きられない自分に絶望し、責める。自分を責めるだけでなく、人を裁く。それがファリサイ派です。この世で、強くナラナケレバナラナイ。それは分かります。しかし、人間ですから、弱さと罪を持っています。しかし、その事実を認め、受け入れられない。それがファリサイ派の人々である」と言うのです。イエスは、律法主義、ネバナラナイの規範から解放され自由に生きる世界を示されました。
13章44節に「宝が隠されている畑を見つけた人は、初めは隠しておくが、喜びのあまり、隠しきれず、持ち物をみな売り払い、その畑を買う」とあります。律法主義から解放される信仰について述べています。「喜びの余り」は「喜び勇んで、喜びが溢れて」という意味です。ネバナラナイという律法主義が喜びの余り、喜び溢れて、に変えるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」とあります。イエスの恵みを受けて、「喜びのあまり、喜び溢れて」の日々を歩んで行きたいと思います。
読んで下さり、感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りします。