2021年1月17日 マタイ福音書9章35-38節「深くあわれむ主」

 与えられたテキストはマタイ福音書9章35-38節です。ファリサイ派の人々はイエスが次から次と病人を癒していくのを見て、「あの男は悪霊の仲間だ。悪霊と結託して、悪霊の力を借りている」と悪口を言い、罵りました。しかし、イエスは、彼らの悪口に対して一言も言い返しません。イザヤ書53章7節に「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれていく小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」とあります。イエスはイザヤの預言のように、罵られても、罵り返さず、悪口を言われても、言い返さず、空しいと呟き、嘆きもしません。不思議に思えるほど沈黙しています。心を込めて病人に仕えてきたのに、誰もイエスの働きを認めません。それでも、イエスは虚無になったり、人間不信に陥ったりしません。淡々と、心を込めて愛の業に励み、福音宣教に仕えました。ここに、イエスのメシア性があります。言いかえれば「忍耐のメシア」です。
コリントの信徒への手紙Ⅰ13章13節に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります。この「愛」は「忍耐強い」と言う意味です。意訳すると、「信仰と、希望と、忍耐、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、忍耐である」となります。アウグスチヌスは「一に忍耐、二に忍耐、三に忍耐、四、五がなくて、六に忍耐」と言います。イエスは忍耐の本質を啓示したのです。
マタイ福音書10章22節に「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。この「耐え忍ぶ」は、「下に」と「とどまる」から成っていて、「踏みとどまる、持ちこたえる」という意味です。「救われる」は「終末的な希望」を意味し、終末論的な救いと希望のことです。その終末的な希望に基づいた忍耐をもって、試練と困難を乗り越えて行く道をイエスは啓示されたのです。その意味でイエスは忍耐のメシアです。
35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。「ありとあらゆる」とは、「すべての人、一人残らず」という意味です。罪人も、徴税人も差別はありません。病人は皆癒されました。「町や村を残らず回って」の「回って」は、病人や患っている人々を見つけ出し、探して、癒されるために歩くことを意味します。イエスは隠され、捨てられ、忘れられた病人を見出し、癒すために町々、村々をくまなく歩き回りました。病人を見つけ出し、癒されました。
イエスは不思議なお方です。なぜあのように忍耐強かったのか。なぜ報われることを求めず、愛の業に尽くされたのか。それは、イエスの人を深く憐れまれる心からです。36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。この「深く憐れむ」が、イエスの忍耐強さと人を愛する愛の業を生み出す原点、動機であるというのです。
この「深く憐れむ」は、ルカ福音書15章の放蕩息子の喩話の中の20節、「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」に使われています。
「深く憐れむ」は、ギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言い、お腹を痛める」と言う意味です。リビングバイブルは「イエスの心は、深く痛みました」と、本田哲郎訳は「はらわたをつきうごかされた」と、岩波訳は「腸がちぎれる想いに駆られた」となっています。原語は「内臓、はらわた」を意味します。それが動詞になって「はらわたがちぎれる想いに駆り立てられる。深く共鳴する、共感する」になります。イエスは人の悲しみや苦しみに「腸を深く痛めた」というのです。この「深く憐れむ」は、福音書で12回、それもイエスだけに使われています。その意味では、イエスの救い主としての人格、人柄を最もよく表しています。イエスは権力で支配する方ではありません。人の苦しみや悲しみに対して、腸がちぎれる想いに駆り立てられる共鳴感、共感のメシアです。人の悲しみと苦しみに腸を深く痛める救い主です。
36節に「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。この「弱り果て」は、「自分の力ではどうすることも出来ない大きな問題を抱え、苦しみ、悩む」ことを意味します。つまり、人生の不条理、矛盾の苦しみです。イエスは、世の不条理と矛盾に苦しむ人を見て「腸がちぎられる想い」をしてくださるのです。人の悲しみや苦しみに共感し、お腹を痛め、激しく心を動かし、救ってくださいます。救いの原点は腹を痛めるイエスの優しい心です。その意味でメシア・救い主です。
マタイ福音書11章28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。詩編55章23節には「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。イエスは、私たちの足らないところを、「わたしが負う」と、全部引き受けてくださったのです。あなたの重荷を委ねなさいと言います。イエスは人の苦しみ悲しむのを見て、腸がちぎる想いに駆り立てられ、心を動かし、寄り添ってくださいます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。深く憐れむイエスに結びついて歩んできたいものです。