2020年11月15日 マタイ福音書9章18-26節「深い淵から叫ぶと」

 与えられた聖書はマタイ9章18-26節です。瀕死の病気にかかった娘の話と12年間も難病を患っている女の人の話です。「ある指導者がそばに来て」とありますが、他の福音書では「ヤイロ」という名前の会堂司、会堂や礼拝の責任者です。彼には一人娘がありました。ところが、その娘が突然死に瀕する病気になったというのです。彼は愛する娘が不憫でなりませんでした。彼は深い淵に投げ込まれたような絶望感に襲われました。もう一人の女の人は、12年間も原因の分からない難病に冒されていました。マルコ福音書には「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と記されています。彼女は全財産を使い果たし、途方にくれていました。二人とも、力尽き、絶望しています。しかし、その絶望の中から救われるのが今日のメッセージです。
22節に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とあります。信仰のすばらしさを物語っている「信仰論」のように見えますが、そうではなくて、主イエスの救いの力強さを語っている「キリスト論」であると思います。ここで主題になっているのは強い信仰ではなく、控えめで、小さく、芥種のような信仰です。
20節に「女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた」とあります。「後ろから」は「知られないように」という意味です。「この方の服に触れさえすれば治してもらえると思った」とありますように、彼女は苦しみと悲しみが少しでも和らげればと思って、ちょっと触れたのです。イエスが「誰が触れたのだ」と、見回すと、女の人は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏したといいます。「信仰をもって、触りました」と、堂々と名乗り出ていません。触ったことを恐縮し、恐れています。
しかし、予想もしないことが起こりました。「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ。元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った」とあります。「救った」は、もともとは「健康、治った、苦しみから救い出す」という意味です。魂や精神が癒されたというだけでなく、身体も健やかになることを意味し、存在全体の癒しという出来事が起こったのです。マタイ福音書は、救いの要因は小さな、控えめな芥種のような信仰であるというのです。
ヤイロの場合もそうです。彼は一言も信仰らしい言葉を言っていません。ただ悲しみと絶望をイエスの足元に置き、主イエスに手を伸ばしただけです。絶望から主イエスを見上げ、主イエスに向かって心の叫びを挙げたのです。
ヨナは荒れ狂う海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれました。ヨナ書2章3節に「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき、わたしは主の御名を叫んだ。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。」とあります。「陰府」は危機、絶望、暗黒の淵を意味します。その危機と絶望の中で神を経験するのでした。ヨナは不条理な苦しみに出会いました。ヤイロも、12年間難病に冒された女に人も不条理で、理不なことに出遭いました。彼らは、その危機の中で神に助けを叫ぶことができ、そして、救われるのでした。
詩編50編15節に「叫ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」、91編15節に「彼がわたしを叫び求めるとき、彼に答え、苦難が襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」。118編5節に「苦難のはざまから主を叫び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」とあります。神は、力尽きて、深い淵の中に置かれている者の叫びに耳を傾け、聞き、そして、立ち上がらせてくださるのです。
マタイ福音書9章19節に「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった」とあります。「ついて行く」と言いますと、わたしたちが主イエスの後に従っていくことを意味しますが、今日のテキストでは、逆です。「主イエスがついてきてくださる」というのです。つまり、ヤイロを苦しめている重荷を、主イエスは受け止め、担ってくださる。主イエスは誰よりもわたしたちの苦しみと悲しみを理解してくれるというのです。
「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい』」とあります。「振り向いて」は、イエスの愛が注がれていることを意味します。ペトロがイエスを裏切ろうとする時に、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)と同じ言葉を使っています。自分を裏切って行くペトロを赦すために、振り向かれたのです。主イエスはわたしたちの危機に気づかれ、立ち止まり、振り向いてくださるのです。
このテキストの主題は、信仰がある、ない、強い、弱いという信仰論ではありません。主イエスの人格と人柄のキリスト論です。人が力尽き、途方に暮れる原因や痛みに気づいてくださる主イエスです。小さな、ささやかな、控えめな信仰を大事にしてくださるイエスです。苦難に遭遇し、力尽きた時に、主に叫ぶとことを許してくださいます。そして、答えてくださいます。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」何処に行こうと何処に置かれようと、共に居てくださる主イエスに叫び、主イエスを信じ、受け入れていきたいものです。