与えられたテキストはマタイ福音書6章1-4節の「施しをするときには」です。竹森満佐一先生は、この御言葉を短く要約すれば、神の前で生きることの「幸い」を語っていると言っています。自分はいつも神の前にあるのだとわきまえて生きる。神のまなざしの中で見守られ、自分の業が神に受け入れられ、報われることを信じて生きる。その幸いを語り、逆に、神の眼差しが信じられず、ただ人の眼差しの中でしか生きられない悩みや苦しみについて語っているといいます。
1節に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。施しをするときには、右の手のすることを左手に知らせてはならない。」とあります。この「偽善者」の動詞は「役を演じる、ふりをする、見せかける」などの意味があります。人の目を意識し、演技をするように生きるなら、本来の自己統一を失い、矛盾や分裂を起こします。サルトルは「他人の目は地獄」といい、人の目の前だけで生きるとき、その人の内で自己の分裂を起し、歪みや悩みが生じるといいます。
ガラテヤの信徒へ手紙1章6節「キリストの恵みに招いたくださった方から、あなたがたがこんなに早く離れて、ほかの福音に乗り換えようしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」とあります。パウロはガラテヤ教会に福音を伝えましたが、パウロが離れると、次第に福音が歪められていきました。それはガラテヤの人々の心の目が、神の方を向いていないで、人の方ばかりに向いているからだというのです。
ガラテヤの信徒へ手紙2章に、パウロがペトロを多くの人の前で叱責をするという出来事が記されています。ペトロは代表的な弟子で、パウロにとって大先輩でした。そのペトロをパウロが叱責したというのです。12節に「なぜなら、ケファハは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです」とあります。ペトロは最初、イエスの教えに従って、ユダヤ人と異邦人とが一緒に愛餐に預かることを認めていました。しかし、エルサレム教会の主だったヤコブたちがやって来ると、忖度し、福音は曲げられました。つまり異邦人は愛餐に預かってはいけないと言うのです。ペトロはヤコブらエルサレム教会の主だった人々の顔色を窺い、人の眼差しを気にしたために、福音の本質を失い、正しい道から離れていったというのです。
ガラテヤの信徒への手紙1章10節には「こんなことを言っても、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」とあります。パウロは、神の眼差しの中で、水平ではなく、垂直に生きることを本質にしているというのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章1節に、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と、13節には「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです」とあります。神の眼差しの中に生きる幸いを「自由」という言葉で表現しています。この「自由」は、本来「解放される」という意味です。あらゆる束縛、つまり律法、罪の縄目、こだわりやトラウマや思い煩いなどからの解放を意味します。パウロは、「わたしはどんな境遇にあっても足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは飽くことにも飢えることにも、富むことにも欠しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」(フィリピ4:11)と言っています。置かれている環境、境遇という外的な束縛から、また、わたしたちを苦しめている罪、思い煩いなど、内的な束縛から解放され、自由になっているというのです。
「毀誉褒貶・きよほうへん」という言葉があります。「毀」は「そしる」、「誉・褒」は「ほめる」、「貶」は「けなす」で、「悪評と好評」と言う意味です。パウロはほめられたり、くさされても、そういうことに全くとらわれず、全く自由に生きていくことを福音から学んだというのです。渡辺和子さんは「人見るもよし、人見ざるもよし、われは咲くなり」と言います。ほめられればありがたく受け止め、悪く言われれば、それを冷静に受け止めていく、しかし、心の底ではいつも他人の評価を関わりなく存在する自分を確立していく。
詩編55編23節に「主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。人の評価や言葉揺れ動く自分ではなく、動かない自分を形成していく、自分だけがしか咲かせることのできない花を咲かせていくことが大事だと言うのです。
そのためには、終末論的に、労苦が報われるという信仰が必要です。この世では働きに応じて報いが与えられます。神の終末的な報いは、わたしたちの思いや期待に勝り、思いを遥かに越えています。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「主にあっては、あなたがたの労苦が無駄になることはないと、あなたがたは知っている」とあります。神は確実に労苦を報いてくださる方です。その神を信じ、受け入れ見上げて歩んでいきたいと思います。