マタイ福音書5章3節に「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」とあります。この「心の貧しい人々は」は、いろいろな言葉で翻訳されてきました。例えば、カトリック教会のフランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人々」、岩波訳聖書は「乞食の心を持つ者」、柳生直行訳は「自分を捨てた人々」となっています。この「心」は、8節の「心の清い人々は、幸いである」の「心・カルディア」とは違います。ギリシャ語で「プニューウマ・霊、力」と言い、人間が創造される時、神から吹き入れられた神の息、霊を意味します。つまり、「心の貧しい」は霊・力の貧しさ、言い換えれば、神との関わりにおける貧しさを意味します。
「貧しい」はギリシャ語で「プトーコス」と言い、本来は「物乞いをする」とういう意味で、「貧乏、欠しい、不足」を意味します。ルターは1546年、62歳で亡くなりました。亡くなる二日前に自分の机の上に、「我々は乞食だ、それは本当だ」と書き残したと言われます。主イエスの恵みと憐れみを受けなければ、生きることはできない事実を告白しています。神の憐れみと赦しによって生かされていると信じる人々は幸い、神の祝福を受けるというのです。
フランシスコ会訳は「心の貧しい人々」を「自分の貧しさ知る人々」と翻訳しています。この「知る」は「認識する、認める」という意味で、神との関わりにおいて貧しい者であることを認識し、ひたすら霊と力に満たされることを求める人々は神の祝福を受ける、幸いであるというのです。ルカ福音書11章に、「友人が夜遅くパンを求めて訪ねてくる」譬え話があります。イエスは語りました。或る人を友人が真夜中にパンを求めて訪ねてきました。彼の家には何もがありませんでした。そこで、彼は別の友人の家に行き、パンを貸して欲しいと頼みました。しかし、戸を開けてもらえず、その家の中から、面倒をかけないでください。もう戸を閉めたし、子どもたちも寝ついたところだ、起きてあなたに何かをあげるわけにはいかない。しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて来ないが、あなたが執拗に頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるだろうと。
9節に「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者は開かれると言われた」とあります。11節には「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたたちは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。神は、プニューウマ・霊・力を執拗に、厚かましいほど求めるならば、必ず与えられる方である。このイエスの言葉を信じて、希望をもって生きる人々はさいわい、神の祝福に与るというのです。
3節の後半に「天の国はその人たちのものである」あります。「天の国」は「神の国・神の支配」という意味です。「天の国はその人たちのものである」よりも、「神の支配はその人たちのものになる」と訳します。「なる」は未来形で、必ずなる、成就するという意味です。5章48節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものになりなさい」とあります。原文は「なりなさい」という命令形ではなく、「完全なものになる」という未来の約束です。神は必ず不完全者を完全な者にしてくださるというのです。霊に貧しい人々が、将来、満たされ、喜び溢れるようになる。その約束の言葉に希望をおいて生きる人々は神の祝福に与るというのです。
出エジプト記3章に、神が初めて「わたしはヤッハウェである」という事実を明らかにする場面があります。「ヤッハウェ」は「成らそうとするものを成らせる方である」という意味です。神はモーセをイスラエル人の解放者にしようとしました。しかし、モーセは「わたしは人前でしゃべり、人を説得する力はありません」と、神の言葉を拒みました。その時、神はヤッハウェであると名乗り出て、モーセを解放者とすると約束しました。そして、40年間かかりましたが、モーセは約束どおりイスエラエルの解放者になりました。つまり、ヤッハウェの神は人に祈りと願いを起こし、それを成就する神です。その意味でヤッハウェの神は人間の究極的な希望、終末論的な希望であるというのです。3節を意訳すると、「霊に貧しいと認識する者は幸いである。なぜなら、主イエスによって霊に満たされる時が与えられるからです」となります。イエスの十字架と復活によって霊の貧しさが満たされる時がある。その真実を信じて受け入れ、委ねていく。そこに神のさいわい・神の祝福があるというのです。
フィリピの信徒への手紙4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」とあります。神の言葉に支えられ、全てを委ねて力強く生きていきたいと思います。