2020年6月28日 マタイ福音書5章1-12節 「新しい教え」

 与えられたテキストはマタイ福音書5章1-12節の「山上の説教」です。1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰をおろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き、教えられた」とあります。「この群衆を見て、山に登られた」にマタイ福音書の信仰的特色があります。因みに、ルカ福音書は「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」となっています。マタイ福音書は、ルカ福音書の「山から下りて」に対して「山に登られた」と言って、イエスを旧約聖書の律法とシナイ山で十戒を授与されたモーセと対比させています。5章17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、成就するためである」とありますように、イエスはモーセ律法や十戒ではなく、神の恵みを信じる信仰、新しい教えを明かにしようとしています。
創世記19章17節に「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山に逃げなさい。さもないと、あなたがたは滅びる」とあります。主の使いがロトと妻に警告した言葉です。「低地のどこにもとどまるな。」の「低地」は、「円、丸、グルグル周る」という意味です。蛾が光の回りをぐるぐる飛んで、やがてローソクの光に触れて死んでしまうように、同じところをグルグル周り、同じことの繰り返し惰性に流されて滅びることを意味します。「山に逃げなさい」は「惰性に流される生活から脱出し、新しい生活を始める」ことを意味します。
 主の使いが、「後ろを振り向けば、あなたは滅びる」と警告したのに、ロトの妻は、後ろを振り向きました。そのために塩の柱になったといいます。フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。イエスは、後ろを振り返ってはならない、低地のどこにもとどまるな、山に逃げなさい、つまり、神に向かって、神を見上げて生きるというのです。
「山上の説教」の冒頭の5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くによって来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。結びの7章28節には「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。つまり、山上の説教は初めと終わりに「群衆」を登場させて、枠付けをしています。つまり、山上の説教が「群衆に向けて語られている」ということを強調しているのです。
この「群衆」はギリシャ語で「オクロス」と言い、「一般民衆、市民」を意味します。使徒言行録4章には、ユダヤ議会議員たちが証言に立つ弟子たちを見て、「無学で、普通の人である」のに驚いたと記しています。群衆は弟子たちのように無名で、普通人であることを強調しています。マタイ福音書4章23-25節に、「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」とあります。群衆はさまざまな病気や苦しみや悩みを負っていました。イエスはその苦しみや悩みを負った群衆に、心を向け痛め、教えいやされたというのです。「心の貧しい人々は、幸いである」。「悲しんでいる人々は、幸いである」。「柔和な人々は、幸いである」。「義に飢え渇く人々は、幸いである。」と、逆説的な真理を語ります。群衆はイエスの言葉に支えられて、苦しみや悩みから這い出すように、イエスのところに来て、いやされ救われたのです。
 9章35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。「深く憐れむ」はギリシャ語で「スプランク・クニゾマイ」と言い「腸、はらわた、お腹を傷める」と言う意味です。イエスは、飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、お腹を痛め、心を痛める優しいメシア・救い主であるというのです。
 マザー・テレサは、路上に倒れている人を助け起し、体を洗い、「あなたは必要とされている」と言って、死の家に迎え入れました。ヒズンー教であれ、仏教徒であれ、イスラム教であれ、宗教的区別なく愛され、許され、生かされている。皆キリストの体であると言います。マタイ福音書11章28節に「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙虚な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる」とあります。「休ませてあげよう」の「休む」は「上に結びつく」と言う意味です。「上」、つまり、神に結びつく、心を向ける。そうすれば永遠の命、希望が与えられるというのです。「安らぎを得られる」は、「心を休める、静かに待つ、元気を出す」と言う意味です。「だれでも、、、」です。「良い働き、良い行いをしは、、、」と言いません。ただ、イエスの来なさいという言葉を聞いて、イエスのところに行けば良いと言うのです。4章18節に「湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』」あります。イエスの招きに応え、イエスのあとにつて行き、イエスを見上げ、最後の勝利を信じて歩んで行きたいと思います。