2020年5月31日使徒言行録1章3-8節「聖霊が降ると」

 与えられたテキストは使徒言行録1章3-8節で、復活された主イエスが、弟子たちの前に現れ、聖霊降臨の約束をする場面です。4節に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とあります。「エルサレムを離れず」の「離れず」は「去る、立ち去る」の強い否定です。意訳すると「決してエルサレムを離れるな。」となり、「エルサレム」から離れず、エルサレムに留まることを命じています。
マルコ福音書16章7節に「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた』とおり、そこでお目にかかれる』と。」あります。また、マタイ福音書28章10節には「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会う」とあります。マルコ、マタイ福音書はイエスの顕現はガリラヤであると言っています。しかし、ルカ福音書24章49節に「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とありますように、ルカ福音書と使徒言行録はイエスの顕現はエルサレムであるというのです。その「エルサレム」に使徒言行録とルカ福音書の信仰と神学があると思います。
 エルサレムは、弟子たちがイエスを裏切り、イエスが十字架につけられ、処刑された場所です。イエスが、最後の晩餐の後、ペトロに「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、他の兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。すると、ペトロは、「わたしはあなたと一緒に死ぬ覚悟ができています』と誓いました。しかし、時が来て、責任が追及されると、前言を翻して、「イエスを知らない」と否定します。三度もイエスを裏切り、赦されない罪を犯しました。その意味では、エルサレムは弟子たちにとって最も忌まわしい場所、一刻も早く離れ去りたい場所です。しかし、イエスは高い所からの力に覆われるまでは、エルサレムにとどまっていなさい。エルサレムで父が約束された聖霊を授けると言うのです。
詩編32編1節に「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とあります。取り返しのつかない弟子たちの罪、知られたくない弱さは覆うわれ、赦され、新しい命が始まるというのです。星野富弘さんの詩画集の中に「菜の花」があります。可憐な菜の花が描かれ、一つの詩が記されています。
 「わたしの首のように、茎が簡単に折れてしまった。
  しかし、菜の花はそこから芽を出し、花を咲かせた。
  わたしもこの花と同じ水を飲んでいる。同じ光を受けている。強い茎になろう」。
 星野富弘さんは、中学の体育教師でした。宙返りの模範演技をして、誤って首から落ち、頚椎損傷の大きな負傷を負い、手足の機能を失いました。その危機から立ち直り、絵筆を口でくわえて絵を描くようになりました。菜の花の茎はわたしの首のように折れてしまった。しかし、折れたところから、新しい芽を出している。折れたところ、つまり、弱さと罪の赦しのエルサレムから、新しい恵みと福音が始まるというのです。
 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節に「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのである』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とあります。聖霊は弱いところに降り、罪を赦し、新しい存在に生まれ変わらせます。
使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人とある」とあります。「聖霊」はギリシャ語で「ハギオス・聖」と「プニューマ・霊」で成っています。「霊」はヘブル語で「ネシャマー」と言い、「息、風」を意味します。創世記2章7節の「神は土の塵で人を造り、命の息(ネシャーマー)をその鼻から吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」に用いられています。土の塵(アダマー)は命の息・霊を吹き入れられと生きた人(アダム)になったといいます。「霊」は人に命を与え、アダム人間にします。
ルカ福音書は「霊」を「高いところの力」と言い、使徒言行録は「力を受ける」と言っています。「力」はギリシャ語で「デュナミス」と言い、「ダイナマイト」の語源です。莫大な力、創造の力、命を生み出す力を意味します。イエスを裏切って、イエスを十字架に追いやった弟子たちを福音の証人に造り変える力と言います。
 サムエル記上10章に主の霊がサウルに降り、サムエルがサウルを王に即位させる場面があります。6節に「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう」とあります。サウルは小心で、臆病でしたから、王になることを恐れ荷物の間に身を隠しました。命を賭けるという気概のない弱い人間でした。しかし、主の霊がサウルに降ると、別人のように変えられ、託されたミションを果たす存在になりました。
 士師記のギデオンはミディアン人を恐れて、酒ぶね(ぶどう酒を造る樽)の中に隠れて、小麦を打っている臆病で、弱い者でした。しかし、ギデオンが聖霊を受けると、別人のように変えられ、ミディアン人を撃ち滅ぼすことができました。聖霊は土の器を神の器に変革します。弟子たちを背後から押し出し、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、福音の証人にします。イエスを裏切った弟子たちはキリストの福音を世界の各地に運んで行く者に変えられました。聖霊は主の交わりと教会を生み出していく不思議な力です。聖霊が与えられて、福音を携え力強く生きる者に変えられ、与えられたミッション・使命に応えていきたいと思います。