エレミヤが預言者として召された時、「わたしはあなたをまだ母の胎内に造らない先に、あなたを知り、あなたがまだ生まれない先に、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」という神の言葉が臨みます。しかし、エレミヤは「わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。誰か、他の人をお遣わしください」と拒みます。すると「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたをだれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という神の言葉が再び臨みます。その結果、エレミヤは預言者として立ち上がりました。
2章1節に「主の言葉がわたしに臨んだ」とあります。「臨む」は、元来、「向かい合う、語る、告げる」という意味で、「聞く」という意味もあります。意訳すると、「主がわたしに向かい合って語ったので、わたしは主の言葉を聞いた」となります。預言者は自分の考えや思想を語る者ではなく、神の御旨と言葉を語る者です。その意味では、「語る」ことに先立って「聞く」ことがある。神の言葉を聞くことがなければ、語ることはできない。神の言葉を聞くことが、より本質的であるということができます。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。「始まる」は「原点、根源」という意味です。つまり、信仰はキリストの言葉を聞くことを原点にしているというのです。
山崎英穂先生は「わたしたちの人生の中で、聞くということほど大切なことはない。わたしたちの人生は聞くところから始まった。子どもが授乳される時、全身の力で母親の乳を吸う、同時に、全身を耳にして、母の言葉を聞き取る。そこから、子どもの心は始 まる。つまり、人の人生は母の言葉を聞くところから始まり、聞くことによって終わる。聞くことは無くてならぬことである」と述べています。
水野源三さんに「御声を聞かなかったら」という詩があります。「あの日あの時、戸の外に立ちたもう主イエス様の、御声を聞かなかったら、戸をあけなかったら、おむかえしなかったら、わたしは今どうなったか、悲しみのうちにあって、御救いの喜びを知らなかった」と。水野源三さんは、小学4年生の時、赤痢にかかり、高熱で脳膜炎を患い、重度の身体的障碍を負い、口も利けなくなりました。14歳の時、近くの坂城教会の宮尾邦隆牧師が「お宅の奥に病人がおられると聞いた」と言って、訪ねてくださり、聖書を贈ってくださったそうです。その聖書を母親に読んでもらい、キリストの言葉を聞くことができました。そうすると、水野源三さんの心の内に救いの出来事が起こりました。聞くことによって、水野源三さんの新しい人生が始まったというのです。エレミヤも神に向かい合い、神の言葉を聞くことによって、預言者の人生が始まりました。
預言者エレミヤが預言者に召されたのはBC627年で、その5年後、ヨシヤ王の宗教改革が起こります。各地にあったバアルの神の聖所が廃棄され、ヤーウェの神を礼拝する運動が起こりました。エレミヤはヨシヤ王の宗教改革の運動を支持しました。しかし、ヨシヤ王がエジプト戦争で戦死し、宗教改革は挫折します。その後、イスラエルは混沌し、遂に,BC597年、そして、BC586年、バビロニアよって、エルサレムは崩壊され、王をはじめ祭司、指導者たちは補囚としてバビロンに連行されました。エルサレム崩壊とバビロン捕囚の激動時代に、エレミヤは神の言葉を聞き語りました。
4節に「ヤコブの家よ、イスラエルの家のすべての部族よ。主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖は、わたしにどんなおちどがあったので、わたしから遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった。」とあります。「空しい・バーバル」は「臨終の際の最後の吐く息、刹那、無益、空虚、絶望」という意味です。神は、イスラエルをわたしの宝だと言って愛し、守ってきました。それなのにイスラエルはヤーウェの神を捨て、空しい神々を頼りにしました。エルサレムの滅亡と捕囚は、ヤーウェの神を捨て、他の偶像崇拝、拝金、拝物主義に陥った結果であります。
「ヤーウェの神はイスラエルの苦しむのを見て、心を痛め、果物が豊にある地カナンに導き、豊かな生活ができるようにした。それなのに、なぜ、イスラエルはヤーウェの神を捨て、ヤーウェの神が最も忌み嫌う偶像を頼りにするのか」と言っています。イスラエルは、エソウが長子の特権を煮物と一片のパンに取り替えたように、真の神・ヤーウェの神を神でないものに、無くてならないものを、無くてすむものと取り替えてしまった。見えないものに心を注がず、見えるものだけを求めた。それがイスラエル滅亡と捕囚の原因であるというのです。
13節に「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜を掘った。水を溜めることができない。こわれた水溜を。」とあります。「無用の水溜」は、「エジプト」と「アッシリア」のことです。イスラエルの王たちは、自国が弱小、小国のために、強力な軍事力と経済力も保持したエジプトに、アッシリアに、バビロンに賄賂を贈り、頼りにし、ヤーウェの神を捨てました。そのために、イスラエルは滅びの道をたどりました。小国、弱小のイスラエルが生きるには人間の力、軍事力に頼らないで、生ける水の源であるヤーウェの神を頼り、委ね、平和で、中立でなければなりませんでした。ヤーウェの神の言葉と力を信じ、信頼していくことにしかイスラエルの生きる道はないというのです。ヨハネ福音書4章13節に「この水を飲む者はだれでもまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とあります。永遠の命に至る水であるイエス・キリストを求めて歩んでいきたいと思います。