2020年4月5日ルカ福音書22章39-46節「御旨のままに」

 受難節第6主日の礼拝で、与えられたテキストは「オリーブ山で祈る」です。43節、44節に「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるように地面に落ちた」とあります。大きな[ ]で括られていますから、本来のルカ福音書にはなかったことになります。つまり、物語は、40節の「いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」で始まり、46節の「イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい」で終わっています。「祈りなさい」、「祈っていなさい」、「祈り」で枠づけをされています。本来のルカ福音書は十字架を前に「苦悩するイエス」ではなく、「祈るイエス」を描いています。11章には、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言うと、イエスが主の祈りを教えたことが記されています。「オリーブ山で祈る」では、イエスが弟子たちから求められたから教えたではなく、祈らざるを得ない事態に直面し、イエス自らが祈っている。そのイエスの実際の祈りが記されています。
42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とあります。「父よ」で始まっています。この「父」はギリシャ語では「パテール」と言い、子どもが父親を呼ぶ時の「お父さん」という意味です。つまりイエスが神に「お父さん」と呼びかけている。それが祈りであるというのです。律法学者では、祈りは細かく決められた祈禱文があり、それがなければ「祈り」ではありません。ところが、この「オリーブ山の祈り」では、「パテール・お父さん」という呼びかけが祈りであるというのです。ローマの信徒への手紙8章26節に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成して祈りにしてくださるからである」とあります。「うめき」は「ため息、嘆息」という意味です。つまりパウロは言葉にならないうめきが祈りだというのです。パウロはユダヤ教の律法学者でしたから、決まった祈禱文が祈りであると思っていましたが、主イエスに出会い、主を信じる信仰を持つようになり、言葉にならないうめきが祈りだというのです。
 イエスが「父よ」と祈ったのは画期的なことです。神は見たら死ぬと、恐れられ、近寄りがたい存在でした。「父よ」と呼びかけることはできませんでした。イエスは恐ろしい裁きの神を近づけ、どこでも、どのような形でも、親しく呼びかけられるように、彼方におられる神を、身近にいて寄り添ってくれる神にしてくださったのです。遠藤周作的に言えば、「母のような神」です。子ども共に苦しんでくれる母、過ちを許してくれる母のように、悲しみを癒し慰めてくれる神です。新約聖書学者の荒井献先生は、著書「イエスと、その時代」の中で「父よ、と呼びかけているイエスは、歴史のイエスを最もよく表している」と述べています。主イエスは、あなたがどこに行こうとどこに置かれようと共にいる、誰もが親しみを抱くことのできる神を明らかにしてくださいました。
41節に「そして自分はひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」とあります。ここにもイエスらしさが表れています。「苦しみを取りのけて欲しい、この状況から救い出して欲しい」と自分の願い、自分の欲していることをまず祈っています。イエスの祈りかといぶかるほど正直率直です。律法主義者は自分の願いや欲していることを祈るのは祈りでないと教えていました。しかし、イエスは違います。今願っていること、今欲していることを何のわだかまりなく、率直に願うのが祈りであるというのです。
 42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とあります。「わたしの願い」の「願い」は「意志、思い」という意味です。「御心」も「意志、思い」という意味、「行う」は「成る、実現する」という意味です。意訳すると「わたしの意志、願いではなく、あなたの意志、思いが、わたしの身において実現するように」となります。究極的な祈りは、主の御旨が、この身において実現する、神の御旨が実現しますようにという祈りが究極の祈りになるというのです。
 45節「イエスが祈り終わって立ち上がり。弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた、『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい』」とあります。原文は「なぜ」はなく、弟子たちを問い詰める言葉ではなく、慰めと励ましの言葉です。意訳すると「あなたがたは眠らないよね。眠るはずがないよね」となります。
「起きる」は「立ち上がる」という意味で、45節の「イエスが祈り終わって、立ち上がり」と同じ言葉です。ギリシャ語では「アナスタス」と言い、イエスの復活に使われています。つまり、イエスが死から新しい永遠の命を受けて、立ち上がったことを意味します。つまり、主イエスが死から立ち上がったように、弟子たちがどのような状況に出会っても、祈り立ち上がり、前に進むことを期待しているのです。イエスは眠り込んでしまった弟子たちを叱責するのではなく、慰め勇気づけているのです。     
ヨハネ福音書16章33節「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。意訳すれば「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に死から立ち上がっている」となります。わたしたちもイエスの言葉に勇気づけられ、立ち上がり、前に向かって前進して行きたいと思います。