2020年3月29日 マタイ福音書20章17-28節「贖いの主イエス」

 レント・受難節で、与えられたテキストは、十字架を前にして、イエスがエルサレムに上る途中で起こった出来事を記しています。28節に「人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」とあります。「人の子」はメシア称号で、イエスのことです。「来た」は、ギリシャ語で「エルコマイ」と言い、「ために」と結びついて、イエスのメシア性、つまりイエスがこの世に来た目的と使命とを伝えています。
18節に「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけられるためである」とあります。「エルサレムに上って行く」の「上って行く」は「決める、決断する」という意味です。この先の26章37節に「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい』」とあります。イエスは十字架を前にして、深く悩み苦しみ葛藤した。その激しい葛藤に打ち克ち、エルサレム行きを決断したというのです。
 20節に「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。イエスは『何かお望みですか』と尋ねました。すると、母親は『王座にお着きになるとき、二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人に左に座れるとおっしゃってください』と言った」とあります。注目したいことは、イエスが母親に「何がお望みですか」と尋ねている点です。普通に考えれば、誰でも自分の死を前にして、悲しみ苦しんでいるとき、他人のことに関心を持つことはできません。ところが、イエスは違います。善きサマリア人が強盗に襲われ傷つき倒れている旅人みて憐れに思い、近づき介抱したように、イエスは母親に「何をお望みですか」と尋ねています。ここにイエスのメシア性が表れていると思います。21節を意訳すると、「イエスは憐れに思い『何がお望みですか』と言われた」となります。この「憐れに思う」はギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言い「腸、腹を痛める」という意味です。つまり、イエスは他人の痛みを見て、自分の腸を痛めるメシア、愛と優しさと寛容のメシアであるというのです。
 マタイ福音書は、マルコ福音書にはない二人の弟子の母親を登場させています。母親は息子のヤコブとヨハネを連れてきて、イエスが王座にお着きになるとき、一人はあなたの右に、もう一人に左に座れるとおっしゃってくださいと願っています。原文は「わたし(ムウ、of mine)の二人の息子だけは」となっています。「おっしゃってください」は「誓う、約束する」という意味です。つまり、母親の関心は、十字架を前に苦しむイエスにはなく、息子の成功と栄誉にあり、自己愛とエゴイズムの罪を表しています。
24節に「ほかの十人の者はこれを聞いて、二人の兄弟のことで腹を立てた」とあります。「腹を立てる」は「憤慨する、憤る」という意味です。十人の弟子たちは二人と同じで、自分の栄達と栄誉しか求めていません。エゴイズム・自己中心主義、自己拡張、ハマルティアの罪です。「罪」はギリシャ語で「ハマルティア」と言い、「的を外す」という意味で、神に創造された本質を失うことを意味します。どうしても解決しなければならない人間の本質的な課題だというのです。
「動く彫刻」で知られている椿昇さんの作品は「人間の欲望を真正面から見据え、その際限のない欲望の恐怖を訴えている」と言われます。「人類は長年、欲望をそのままにしてきた。そのために、欲望は地球規模に膨れあがり、制御不能の瀬戸際まできている。私たちはその瀬戸際に生きている。人間の際限のない欲望という罪は世界の滅びに至らせる。救いの道はどこにも見出せない」と述べています。イエスの言葉は椿さんの問題提起に対する一つの答えだと思います。
25節に「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」とあります。イエスの告白するメシア、権力と金力でもって支配する救い主ではありません。仕える、それも徹底的に仕え自分の命を与えるメシアです。仕える、献げる、与える生き方に救いがあると言うのです。フィリピの信徒への手紙2章6節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とあります。「このため・デイオ」は「結果」という意味です。十字架の死にいたるまで従順に仕えた。その結果、高く上げられ勝利を与えられたというのです。「仕える」ことは辛い、苦しい、忍耐のいることです。しかし、結果として、終末論的に祝福と永遠の命に与るというのです。この信仰的真理を信じて受け入れていきたいと思います。
 イザヤ書43章1節「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。徹底的に仕える主は私たちを贖い、あなたはわたしのもの、とこしえにわたしはあなたと共にいると言ってくださいます。この言葉を信じて、前を向いて歩んで行きましょう。