テキストは洗礼者ヨハネの物語です。ヨハネは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれていたように悔い改めを迫り、悔い改めのしるしとしてヨルダン川で、バプテスマ・洗礼を授け、洗礼運動を起こしました。3節に「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とあります。イザヤ書40章3節の引用で、第二イザヤと言われ、イスラエルの歴史の中で最も苦難のバビロン捕囚時代の預言者です。イスラエルはバビロニアに滅ぼされ、エルサレムは破壊され、王をはじめ主だった人々がバビロンに連行され、大変苦しい生活に置かれました。40章1節に、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけよ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」あります。29節には「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力が与えられる。若者も倦み、疲れ,勇士もつまずき倒れるが、主に望みをおく人は新しい力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることはなく、歩いても疲れない」とあります。第二イザヤの預言は、長くバビロンに捕らえ移され、絶望していた人々に、苦難から解放される時は来るという希望と慰めを与えました。
この「荒れ野で叫ぶ者の声がする」の「荒れ野」は、望郷の念に駆られて、帰還の夢を阻むアラビア砂漠と荒れ野のことです。バプテスマのヨハネは、主と神の民のために高い丘を低くし、谷を埋め、荒れ野に道を整え、険しい道を平らにし、その道筋を真っ直ぐにし、捕囚民のエルサレム帰還を実現するというのです。
マタイ福音書はイザヤ40章の「帰還の預言」を引用することによって、捕囚からの解放、罪や咎からの赦しの約束がバプテスマのヨハネによって成就した。洗礼者ヨハネが現われ、悔い改めのしるしとして洗礼を施している運動に、神の新しい救いの御業が始まっているというのです。
イザヤ書40章27節に「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。うむことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」とあります。捕囚の民は苦難の中に置かれ、どこにも救いの光は見えない、救いの兆候は少しも見えない。神はわたしたちを忘れてしまったと嘆き絶望していました。しかし、第二イザヤは暗闇と苦難の中に主の救いの御業は始まっているというのです。コリント第一の手紙4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。主の救いの御業は目に見えないけれども、すでに始まっているというのです。
マタイ福音書3章11節に「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」とあります。「優れた」は「力を持つ、人を生まれ変わらせる力を持つ」という意味です。バプテスマのヨハネは、人を生まれ変わらせる方イエスに対して何の値打ちも無い存在で、奴隷にも価しないと言うのです。言い換えれば、主イエスに徹底的に仕えるというのです。ヨハネ福音書3章30節に「わたしは喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、わたしは必ず衰えねばならない。」とあります。「必ず」は神の必然です。主イエスに仕える道が、ヨハネがヨハネとして生きる道、つまり使命を持ち、生きる喜びと意味を見出す道であるというのです。マルコ福音書10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのである」とあります。苦難に出会っても落胆失望しないで、主イエスに従う道を歩むというのです。
使徒言行録のバルナバはパウロの先達でパウロと共に伝道旅行しました。パウロは最初教会を迫害し、その後キリスト者になりました。バルナバはパウロを見出しエルサレム教会に紹介しましたが、エルサレム教会は迫害者パウロを受け入れませんでした。そのパウロを受け入れるように執り成したのがバルナバです。そして、パウロと共に伝道旅行に出かけました。そのパウロの伝道旅行に青年のマルコが同行しましたが、途中で挫折してしました。次の伝道旅行にパウロはマルコを連れて行かないと言い、バルナバは連れていくと言い、二人の意見は分かれてしまいました。パウロはシラスと共にヨーロッパへ伝道旅行に向かい、バルナバはマルコと二人でキプロス島に伝道旅行に出かけました。バルナバのその後消息は分かりません。パウロは小アジア、ヨーロッパに伝道し、各地に大きな足跡を残し、各地に教会が生まれました。使徒言行録はパウロの働きには目を留め詳しい記述があります。しかし、バルナバの働きについては何も記していません。しかし、バルナバは徹底して神に仕えました。バルナバの主に仕えるという信仰がなければ、パウロも、教会も生まれなかったと思います。
11節に「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は必ず栄え、わたしは必ず衰える」とあります。バプテスマのヨハネは主イエスを指し示す事に徹底的に尽くしました。彼の人生はイエスを証しする人生でした。バプテスマのヨハネは、主に仕えることに徹したからこそ、喜びや生き甲斐や使命を持つことが出来たのです。ここに私たちのこの世での在り方が示めされていると思います。主イエスを指し示し、証し、仕える生き方こそ恵みの人生だと思います。