与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙3章1-9節です。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、・・・・」で始まっています。この「では(ロイポン)」という接続詞は、口語訳聖書は、「最後に」と訳していますが、重要な事柄を述べるとき用いられます。意訳すると、「最後に、言います。わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」となります。
「喜びなさい」は、4章4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。主において喜びなさい」とありますように、この手紙の中では8回も用いられています。その意味では重要な言葉です。「喜びなさい」はギリシャ語では「カラ」と言い、命令や義務ではなく、「喜べる」という信仰的事実を意味し、「主において(エン・キュリオー・in the Lord」)」という言葉がついています。「主において」の「おいて(エン)」は「結ばれて、あって」などの意味があり、「主に結びついた喜び」です。つまり、「喜び」は所与、信仰の賜物であるというのです。
「主・キュリオス」という言葉にも特別な意味があります。2章8節に「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。・・・すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とありますように、すべての名にまさる名、すべての人が告白する主・キュリオスです。
ヘブライ人の手紙13章8節に、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。ペトロの手紙Ⅰ1章24節には「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主(キュリオス)の言葉は永遠に変わることがない」とあります。この「喜び・カラ」は、わたしたちの状況に左右されることのない、永遠に変わらない主に結びついた喜びです。八木重吉に「どこを断ち切っても美しくあればいいなあ」という詩があります。どの時代を断ち切っても、どのような事柄に出会っても、喜ぶことができるように、主に結びついているというのです。
パウロは「最後に」と言っていますから、ここで手紙は終わるつもりでしたが、喜びを与える信仰を妨害する者たちのことを思い出し、さらに続けました。3章2節に「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全な(無くてならぬこと)ことなのです。あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」とあります。「犬ども、よこしまな働き手たち、割礼を持つ者たち」とは、ユダヤ的律法主義者のことです。つまり、キリスト者になっても、割礼が象徴するユダヤ的律法主義を越えられない人々のことです。救われるためには、キリストの十字架を信じる信仰だけでは不十分で、割礼、良い行い、立派な業績、学歴、名誉、努力、精進等々が必要であるという考えです。
パウロはかつてユダヤ的律法主義者でしたから、ユダヤ的律法主義は真の救い、許し、平安、和解に導くことはできず、裁き、滅び、分裂、倒錯に導くということを知っていました。パウロは、使徒言行録6章に記されているように、自己の義を誇り、絶対化することによって、スティファノの殺害という罪を犯し、矛盾に陥りました。ローマの信徒への手紙7章24節に「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・、わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」とあります。律法主義は人を迷わせ、疑わせ、絶望させるというのです。パウロは、そのような絶望の中で、キリストに出会います。キリストの福音は、十字架を信じるだけで、救われるという新しい教えでした。キリストの十字架の福音を聞き、信じ、受け入れる。それだけで救われるというのです。
7節に「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とあります。パウロの回心体験です。パウロはキリスト出会い知ることによって、パウロにとって「有利・有益」なものが「損失・損」に見えるようになり、それまで無くてならないと思っていたものが、塵あくたに見えるようになり、パウロの心の構造が変えられ、価値の体系が一変したというのです。
パウロは「主キリストを知ることの絶大なる価値ゆえに」と言っています。この「知る」は、ペトロの手紙11章8節の「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見えなくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」の「見えなくても信じる」と同じ言葉です。真の救いは律法や業績ではなく、見えなくても信じる信仰です。ヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。ここにも「律法、働き、業績」という言葉はありません。ただ、御子のキリストを信じる、それだけで十分であるというのです。キリストの救いの言葉を聞いて、確信を持つことが、信仰の本質であるというのです。キリストを信じ愛し委ねる。その信仰を学びたいと思います。