2019年10月27日 フィリピの信徒への手紙2章12-13節 「救いの達成」

 与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙の2章12-13節です。12節に「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」とあります。パウロは、「だから」という接続詞をつけて、従順であることの理由を述べています。8節に「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」あります。「高く上げる」は「勝利と栄光に与る」ことを意味します。つまり、キリストは死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であったが故に、勝利と栄誉を与えられたというのです。最後まで耐え忍ぶ者は救われると言われるように、従順の結果は勝利と祝福であると言うのです。また、教会を一つに、一致させることができるのは、従順であると言います。教会は、ギリシャ語で「エクレシア」と言い、「エク・~から」と「レシア・招かれる、呼ばれる」という二つ言葉から成っています。つまり、世から主に招かれた人々の共同体です。異邦人も、ユダヤ人も、割礼を受けた者、無割礼の者も、徴税人も、罪人も、重い皮膚病の人も、悪霊に憑かれた者も、皆主に招かれた多様な者の共同体であるというのです。
 2節に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。教会の一致、平和、和解は福音の本質です。1章17節に「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」とあるように、教会が一つになることは大変難しいことです。しかし、一つになる可能性がある。それは、それぞれがキリストの従順に自分の心を合わせる。倣うことです。「従順」はギリシャ語の本来の意味は「聴く」で、「神の言葉が自分に向けて語られていると主体的に聴き従う」という意味です。言い換えれば、神の御旨を聴き、信じて従うことによって一致、和解が生まれるというのです。
創世記12章のアブラハムがハランで、平穏な生活を送っていた時、「あなたは生まれ故郷、父の家を捨て、わたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」という神の言葉が臨みました。アブラハムは神の言葉に直ぐに従うことはできませんでした。アブラハムの年齢は75歳で、神の言葉に従い得ない理由は沢山あり、従うか、拒むかという葛藤が生じました。しかし、その葛藤に打ち勝ち、神の言葉を聴き入れ従いました。それが「従順」です。
使徒言行録の4章19節以下には、ペトロとヨハネがユダヤ当局に逮捕された場面が記されています。二人はユダヤ当局から「今後、キリストの名によって語ることは許さない。命の保証はない」と脅されます。その時、二人は「神は、神に聴き従うよりも、あなたがたに聴き従うことを望んでおかれるお思いですか。」と言って、当局の迫害を恐れないで、神に聴き従う道を選びました。神の聴き従うべきか、人間に聴き従うべきか、と深く祈り、究極的には、神の道を選び、従う。それが従順です。
 無教会の内村鑑三の「不敬事件」を思い起こします。1891年(明治24年)、内村が第一高等中学校教師であった時、明治天皇の教育勅語の入った包みを奉拝しなければならない。内村がそれを拒否する事件です。天皇に対して尊敬respectはあるが、拝む・礼拝bowはできない。神以外の何者に対しても人神化、物神化はできないというのです。その結果、内村は「不敬な輩、国賊」と国家、マスコミ、大衆から厳しい非難を受けました。結局、第一高等中学校を追われ、教会からも見捨てられました。妻は心労で急死する。内村は深い孤独と重い苦難を負います。それでも、自分の自由と責任で、神の道を選んで、神の言葉に聴き従う。神の御旨を第一にする。それが従順です。パウロは、その従順の信仰こそ、信仰の本質であるというのです。
 12節に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とあります。「恐れおののいて」は「怯え、びくびくする」という意味ではありません。神を神とする。神は創造主で、自分は被造物に過ぎない者であるという信仰を意味します。パウロは不思議な人物です。人間的に言えば、天才、偉人です。しかし、自分は神に造られた土の器、つまり素焼きの、粗末な、壊れやすい器であるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章「そして最後に、月足らずで生まれたわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中で一番小さい者、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」とあります。自己卑下ではなく、全く謙遜です。言い換えれば、自分は被造物です。神は創造主、このヤッハウェの神の他、何ものも神とはしないという信仰を告白しています。「努める」は、3章12節の「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めています」で使われています。また、13節には「ただこの一事を努めています。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指してひたすら走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのです」に用いられています。この「努めている」は「懸命に、ひたむき、戦いに勝つ」などの意味です。救いの達成のためにひたむきに生き、戦いに打ち勝っているというのです。パウロは信仰者をアスリートに喩えています。アスリートは目標に視線を集中させて、前傾姿勢でひたむきに走ります。私たちも上に召してくださる神の賞、救いの達成を見据えて走り続けます。そういう信仰の生涯は神の輝く栄光を約束されています。神の勝利の約束を信じてひたすら前進しましょう。