与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙2章6-11節で、「キリスト賛歌」の後半部分です。9節に「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」とあります。「神はキリストを高く上げ」という表現はフィリピの信徒への手紙、独特の信仰を表しています。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章3節の初代教会のキリスト告白の中に「罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」とあるように「復活した」となっています。しかし、キリスト賛歌では、「神は高く上げた」という表現になっています。「高く上げ」はギリシャ語で「ヒュペリュプソ-」と言い、使徒言行録2章32節の「それで、イエスは神の右に上げられ、・・・」で、5章31節の「神は救い主として、御自分の右に上げられました」で用いられています。キリスト教用語で言えば「高挙」です。「高挙」はまだ復活信仰が生まれていない旧約時代の信仰です。敵や死に対する勝利、誉れ、栄誉を表現しています。つまり、「神がキリストを高く引き上げられた」は、キリストが神の勝利の栄冠、誉れ、栄光に与ったことを意味します。
パウロは「このため」という接続詞を使って、キリストが高く引き上げられ、神の勝利と栄冠に与った根拠と理由を述べています。「このため・デイア」は、「それ故に、その結果」という意味です。意訳すると、「キリストは、十字架の死に至るまで従順でした。その結果、神はキリストを高く引き上げた」となります。つまり、キリストが死に勝つ勝利、栄誉、栄光を与ったのは、十字架の死に至るまで従順の結果であるというのです。その意味では、パウロの信仰にとって「従順」は大事な意味を持っています。「従順」はギリシャ語では「ヒュパクーサイ」と言い、元来「聞く、耳を傾ける、聴き従う」という意味で、「神の御心を聴いて従う」となります。「自分の思いや願望を通すのではなく、神の御旨を第一にする」という意味になります。
イエスはゲッセマネで十字架を前にして、一人になって祈ります。マルコ福音書14章に、イエスはひどく恐れてもだえ始め、わたしは死ぬばかりに悲しい。この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈った。あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますようにと祈りました。そして、立ち上がり、決断し、十字架の道に従ったとあります。不条理に苦しみながら、神の御心を尋ねて、神の言葉を聴いて従う。これが「ヒュパクーサイの従順」です。その道は真っ直ぐな道ではありません。先が見えないように曲がりくねっています。そこに立ち止まって祈りを献げて、示される道、その道に従う。それが従順です。しかし、それで終わりではありません。その結果、従順がゆえに、神はキリストを高く引き上げられ、栄誉と栄光を与えたというのです。
9節「神は、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあります。「あらゆる名にまさる名」は、「主」という称号です。ギリシャ語で「キュリオス」と言い、初代教会は旧約聖書の「神・ヤハウェ」をギリシャ語に翻訳するとき、「キュリオス」にしました。その意味では「神」を表します。十戒の第一に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とありますように、キュリオスは、神以外に用いません。どんなに優れた王、英雄,皇帝、偉人であっても、人間には絶対に用いません。その「キュリオス・主」がイエスに用いられました。イエスを主・キュリオスと告白したということは、この世界と歴史と個人の運命の真の支配者はイエス・キリストであって、他の何ものでもないという告白です。イエス・キリスト以外のいかなるものも、それがどんなに力強く、どんなに頼りがいがあるように見えても、究極的な信頼をおかないというのです。イエスを十字架につけたローマ皇帝も、迫害者ネロ皇帝も、アッシリアのサルゴン王も、バビロニアのネブカドレツァル王も、主とされることはありません。「天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、神をたたえるようになる」とあります。主だけを信頼して生きるようになると言うのです。終末論的に、すべての人が、主イエスの他、何ものも神としない。主のみを神とするという信仰に生きる時が来るというのです。
イスラエルが南北に分裂していた時代です。北イスラエル王バシャがアラム・シリアに対抗して軍事同盟を結ぶようにと南ユダ王国に攻め込んできました。南ユダ王国のアサ王は、バシャ王の率いる大軍と強力な戦車や武装を見て、慌てふためきました。「わたしの他、なにものをも神としてはならない」という信仰を失って、大国のシリアの王ベン・ハダドを頼りにし、軍事同盟を結びました。その結果、アサ王は、厳しい裁きを受け、滅ぼされました。神が求めることは、どのようなことがあっても、主イエス・キリストに対する信仰、信頼です。目に見える軍事力や力を頼りにするのではなく、目に見えない主・キュリオスを全幅に信頼することです。終末論的な出来事ですが、天上のもの、地上のもの、地下のもの、すべてが主・キュリオスを信頼する時が来るというのです。ローマの信徒への手紙8章38節に「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。主イエスの十字架と復活が示す終末論的勝利と希望を見上げて、前進して行きましょう。