テキストはフィリピの信徒への手紙の2章5-8節です。パウロは三回伝道旅行を行いましたが、フィリピの教会は、二回目の伝道旅行で生まれた教会です。初めの挨拶に「あなたがたを思い起こす度に、神に感謝する」とありますように、パウロはフィリピの教会に特別な思いを抱いていました。フィリピの教会は宣教に熱心で、物心両面でパウロを援助し支えました。その意味では素晴らしい教会でした。しかし、教会内の不一致という深刻な問題を抱え、パウロを苦しめました。1章17節に「獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機から伝道をしている」とありますように、教会内にはパウロの悪口を言い、批判し、パウロを追い出そうとする人たちがいました。1章28節に「反対者たちの脅されてもたじろぐな」、3章18節には「何度も言ってきましたし、今涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とあります。パウロの福音信仰に反対し、攻撃するユダヤ主義律法主義者がいました。4章2節に「エポディアとシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」とあります。二人の婦人が対立し、教会の中に分裂が起きているようです。これらの言葉から、パウロが教会内の不一致、争い、分裂の問題を抱えて心を傷めていたことが解ります。2節に「同じ思いになり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。パウロは苦労して福音伝道をしてきましたが、その目的は平和、和解、一致、共生が生まれることでありました。
ガラテヤの信徒への手紙3章27節に「バプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着ています。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つです」とあります。ユダヤ人と異邦人は、アブラハム時代から憎しみ合い争ってきましたから、一つになることなど考えられないことでした。しかし、パウロはキリストのバプテスマによって、ユダヤ人と異邦人が一つになるというのです。
ガラテヤ教会も、パウロが伝道し生まれました。教会設立後、違った福音がガラテヤ教会に入り込んで、派閥が起こり、対立し、分裂の危機に立たされました。パウロは皆を一つにするためのバプテスマであるとバプテスマの意味を明らかにし、キリストは教会の一致、和解のために、十字架に死なれた。だから、キリストの死を無駄にしてはいけないというのです。どうしたら和解と一致が生まれるか・・・。5節に「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」とあります(口語訳)。この「思い」は「心、志、意図、態度、生き方」などの意味を持っています。意訳すると、「キリストの心、志、生き方をあなたがたの間で互いに生かしなさい」となります。
パウロは「キリストの心、思い」を、当時の教会の中で歌われていた「キリスト賛歌」を引用して解き明かします。6節に「キリストは、神の身分(本質、内容)でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になれました」とあります。「自分を無にする」は、ギリシャ語で「エケノオー」と言い、元来は「持っているものを放棄する、器の中に入れてあるものを外に注ぎ出し、器が空っぽになる」という意味です。つまり、キリストは神の本質、宝、誇れるものを注ぎ出したというのです。コリントの信徒への手紙のⅡ8章9節に、「主は豊かであったのに、あなたのために貧しくなられた。それはキリストの貧しさによって、あなたがたが豊かになるためであった」とあります。この「自分を無にする・エケノオー」を「貧しくなる」と言い換えています。キリストはわたしたちを豊かにするために、自ら進んで貧しくなられました。そのキリストの心、志、態度をわたしたちの間で、互いに生かしなさいと言うのです。
7節に「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。「僕・ドゥーロス」の動詞「ドゥリュオー」は「仕える」という意味です。イエスは、マルコ福音書10章45節で「あなたがたの間では、偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕になりなさい。人の子がきたのも、仕えられるえられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」と言っています(口語訳)。仕えられるのではなく、仕えるためにきたというキリストの心をわたしたちの間で互いに生かすというのです。
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」の「へりくだって」は、3節の「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」で使われています。ギリシャ語で「タペイノン」と言い、「自分を低くする」という動詞で、名詞になると「低い思い、謙遜」という意味です。アウグスティヌスは「信仰は謙遜、自らへりくだって自分を低くすることである」と言います。謙遜、自分を低くすることが、対立、争い、分裂の中で一致、和解を生み出す原点であるというのです。キリストの心と思いに自分の心を重ねる時、人と人とが一つになる、和解、平和の道が切り開けてくるというのです。分断、分裂の時代の中で、和解と平和、共生を創造していきたいと思います。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ心と思いを互いの間で活かして行きましょう。そこに新しい道が開かれていくのではないでしょうか。