与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙2章1-4節です。2節に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。この「喜び」はギリシャ語で「カラ」と言い、「切実な思い、最大な関心、願い」などの意味です。つまり、パウロの切実な願いと最大の関心はフィリピの教会の人々の思いが一つになることであると言うのです。
パウロは、今獄中に捕らえられて、極刑は避けられない極限状況下に置かれています。驚くことですが、切羽詰まった状況の中で、自分の最大の関心事は、自分に関わる事柄ではなく、フィリピの教会の人々に寄り添うことであるというのです。
ヨブ記のヨブは不条理を負わされ、極限状況に置かれると、どうしてこのような苦難に遭わなければならないのか。生まれて来なければよかったと悲嘆に暮れ、絶望します。道徳家エリフは、ヨブの呟きを聞き「あなたは自分にだけに心の目を向けている。その心の目を自分から離して、他に転じてみなさい」と忠告します。悩み苦しむと、自分の事柄にしか関心をもてなくなる。それでは駄目だというのです。道徳家エリフはヨブを責めますが、ヨブを責めることはできません。誰でも、エリフ自身も、苦悩の渦中に置かれれば、自分のことで精一杯で、他に目を注ぐことはできません。ところが、パウロは違います。獄中に捕らえられ、不条理な窮地に立たされているのに、フィリピの教会の人々が一つ思いになることが最大の関心事になっているのです。このパウロの姿に人間の尊厳と自由と無限の可能性を見ることができます。
ビクトール・フランクルがナチス・ドイツのユダヤ人の強制収容所の中で起こった出来事を報告しています。収容所の中に病人が出ました。彼は朝起き上がることはできません。囚人に一日一回の小さな固いパンとスープが与えられのですが、起き上がれない者には与えられません。彼は死を待つしか術がありません。しかし、考えられないような出来事が起こりました。朝起き上がることのできない病人の枕元にパンとスープが置いてあるのです。誰か分かりません。自分が食べなければ生き伸びることができないのに、パンとスープが彼の枕元に置いてあるのです。フランクルはこのような情景一回だけでなく、何回も目撃したそうです。人間の尊厳を見ることができたというのです。
アウシュビッツの囚人は病人にパンを譲るか、譲らないか、全く自由です。譲らなくても、責められることもありません。譲っても、褒められることもありません。譲っても、譲らなくても、誰にも気づかれない。全く無名の囚人は、自由の中でパンを譲る道を選び取っているのです。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。イザヤ書43章4節には「わたしの目にあなたは価高く、貴い」とあります。人間の尊厳と自由と無限の可能性を讃えています。パウロもここで人間存在の尊厳、自由、人間の無限の可能性を訴えているのです。
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」の「一つ」は、多くのものを一つにまとめあげる統一や、一様に整える画一ではありません。例えばボート競漕は8人で漕ぎます。オールの一本でも揃わないと一致を追い求めることはできません。8人が一糸乱れず、一つ心一つの呼吸になって、オールを漕ぐことを訓練するそうです。しかし、パウロの切望する一致は、一糸乱れぬ一致ではありません。
パウロは教会を「キリストの体」と表現しています。人間の体が多くの肢体と器官からなっていますように、異なった違った者が集められ、違ったままの共同体であるというのです。例えば、教会は一枚の真っ白な布ではなく、色々な素材、色々な形、色々な色、その切れ端を集めたパッチワークです。異なった者、違った者が一つになる。別の言葉で言い換えれば、「共生、和解、平和」です。
詩編133編1節に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあります。「共に座る」は「共生、和解、許し合い」です。「兄弟」は、所謂「肉親の兄弟」ではなく、異邦人とユダヤ人、敵と味方、相容れない二人を意味します。その二人が共生し、和解する。なんという恵み、なんという喜びと言うのです。
この先の4章2節に「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」とあります。二人はフィリピ教会の婦人です。性格の違いか、意見の相違からか、対立するようになったようです。二人の対立はそれだけで納まらないで、派閥のようなものが生まれ、教会が二つに割れてしまいました。それを知ったパウロは「一つになりなさい」と言わないで、「主において同じ思いを抱きなさい」と言いました。言い換えれば、「共生、和解、許し合い」です。
コリントの信徒への手紙Ⅱ5章19節に「神はキリストによって、わたしたちを御自分に和解させ、かつ和解の福音をゆだねられた」とあります。コリントの教会の人々は、キリストの十字架の贖いによる無償の許しを受け入れました。だから、異なった兄弟を受け入れて行くことができるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ8章11節に「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」とあります。キリストはわたしのために十字架に死なれた。同時に、あの兄弟のためにも死なれたのです。キリストの十字架の下で、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして行きたいものです。