2019年8月11日 フィリピの信徒への手紙1章1-3節 「キリストの奴隷」

 フィリピの信徒への手紙はパウロ書簡の一つです。パウロが獄中から書き送った最後の書簡で、62,3年頃と著されたと言われています。宛先のフィリピの教会は、北マケドニアに位置し、ギリシャのアレクサンドロス大王の父フィリポス王の名を取って名づけた都市で、ローマ時代には皇帝アウグストゥスがブルータスと戦って勝利を得たローマの植民地都市です。皇帝礼拝や異教の神々の礼拝が盛んに行なわれていた異教社会の教会ですから、信仰的な戦いと試練の中に置かれていました。それらを背景にした書簡です。
パウロは当時の書簡形式に従って、挨拶と自己紹介から始めています。まず、注目する点は、自己紹介の言葉です。他の手紙では、「召されて、使徒(アポステロス・遣わされた者)となったパウロ」となっていますが、フィリピの信徒への手紙は「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と言っています。この「キリスト・イエスの僕」にパウロの信仰が込められています。「僕」はギリシャ語で「ドゥーロス」と言い、「奴隷」という意味です。「ドゥーロス・奴隷」はコリントの手紙やピレモンの手紙に出てきますが、金銭で売買される主人の道具・所有物で、「生殺与奪権」という言葉がありますように、生かすも、殺すも主人の胸一つで、自分の意思を持つことは許されません。パウロは、その「ドゥーロス」を使って、「キリスト・イエスの奴隷であるパウロ」と言います。
原文ですが、「キリスト・イエスの奴隷」の「の」に強調点があります。つまり、キリスト・イエスのみに従属している。別の言葉で表現すれば、「神を神とする」です。モーセ十戒に「わたしのほか何ものをも神としてはならない」とありますように、キリスト以外の何ものも神としない、何ものにも従属しないというパウロの信仰告白です。
ガラテヤの信徒への手紙4章8節に「あなたがたはかつて神を知らず、もともと神でない神々の奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。否、神に知られている。だから、二度と神でない神々の奴隷になってはならない」とあります。この「二度と神々の奴隷になってはならない」の「神々」は、ギリシャ語で「フィシス」と言いますが、いろいろな意味があります。例えば、家柄、学歴、生まれながらの性質、罪、古い自分、恨み、妬みなどの意味があります。つまり、古い自分や罪に隷属してはならないというのです。ガラテヤの信徒への手紙1章10節に「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか。それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと務めているのか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの奴隷ではあるまい」とあります。キリスト・イエスのみの隷属し、キリスト以外の何者にも隷属しない。神でない神々、罪や咎から解放され、自由にされなさいというのです。
もう一つのことですが、パウロは、一般的には「イエス・キリスト」と表現するところを「キリスト・イエスの奴隷」と言って、キリストを強調しています。このイエスは地上の生きて働き、ペトロたちは直接出遭い、教えられ、使徒職の根拠となっています。しかし、パウロは生前のイエスに出遭っていません。その出遭ったことのないイエスを意味します。キリストは復活され霊に満ち、パウロに顕れ、パウロを死から永遠の命に生き返らせました。ペトロの手紙Ⅰ1章8節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。このキリストは、あなたがたが見たことのないのに、愛している、見なくても信じているキリストです。その復活のキリストの奴隷であるというのです。
 パウロは最初、ファリサイ派に属し、所謂、神でない神々に隷属し、洗脳され、狂信的になり、教会を迫害し、ステファノを殺害するという、許されることのない罪を犯しました。しかし、復活のキリストに出会い、罪が許される経験をします。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章8節に「そして最後に、月足らずで生まれたわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さい、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあります。キリストは罪に死んでいたパウロを命に生き返らせました。パウロの「キリスト・イエスの奴隷である」という言葉は、復活のキリストがパウロの全ての根源、命の源であるという信仰を告白しています。
 3節に「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とあります。「思い起こす」は「相手の名を呼んで祈る、執り成しの祈りをする」という意味です。パウロは獄に繋がれ、極刑は免れない状況の中で、喜びをもって、あなたがたのために祈っているというのです。誰でも厳しい状況に置かれたら、自分のことで、精一杯で、他人のことは考えられません。しかし、パウロは窮地に立たされても、人の名を上げて執り成しの祈りをしているのです。イザヤ書7章4節に「落ち着いて、静にしていなさい。恐れることはない」とあります。パウロの信仰的自由と落ち着きに心を打たれます。体は閉じ込められているのに、心と思いは自由で、命に満ちあふれているのです。この事実こそ信仰の賜物だと思います。
 ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。何時如何なる場合でもキリストにつながっていなければなりません。キリストと深く強くつながる時、豊かな実を結びます。その事実を信じて、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて、前に進んで行きましょう。