与えられたテキストはルカ福音書の「エマオで現れる」です。元になった記事は、マルコ福音書16章12節の「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へと歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された」です。ルカ福音書は、マルコ福音書の文章に独自の伝承を加え編集し、この美しい物語に書き上げました。ルカ福音書特有の記事です。名画には、レンブラントの「エマオのキリスト」「エマオの途上」、カラヴァジョ「エマオの晩餐」、ルオーの「夕暮れ」等があります。
物語は「二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かって歩いていた」で始まっています。「二人の弟子」は、ペトロやヤコブのような12弟子ではありません。18節に「そのうちの一人がクレオパである」という説明がありますが、具体的に誰であるか分かりません。原文には「弟子・マセテース」という言葉はなく、「彼らのうちの二人が・・・・」となっています。「彼ら」は、11節に「主の復活をたわ言と馬鹿にしている」、25節に「物分かりが悪く、心が鈍い」とあるように、復活を信じることのできない無学で、普通の人々のことです。復活の主イエスは、そういう二人に近づき、話しかけ、寄り添い、希望を与える主であるというのです。復活の主は、5章31節に「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とありますように、罪人、貧しい者、無学な者、低い者へ目を注ぐ優しい方です。
平衡記事のマルコ福音書12章12節は「二人が田舎の方へ歩いて行った」となっており、「エマオ」という地名はありません。つまり、「エマオ」はルカ福音書特有の記事です。しかし、エマオの地理的な場所は分かりません。ルカ福音書は地理的な関心はなく、信仰的、象徴的な意味を持っています。13節の「エマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていると、・・・・」の「向かって」は、「目指す」という意味です。「歩きながら」の「歩く」は、ルカが好んで使う「ポレウオマイ・前に向かって進む」という意味です。つまり、「エマオ」は「彼らが目指して前進する目的、目標」を意味します。ヘブライ人への手紙11章14節に「わたしたちはこの地上では旅人、魂の故郷を目指す旅人である」とありますように、「魂の故郷」です。
フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。この「目標」は「テロス・終わり・究極的な目的」という意味です。つまり、ルカ福音書は「エマオ」で、わたしたちが目指す究極的な目的、目標を表現しているのです。
15節に「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあります。この「遮られた」は、原語では「クラテオー」と言い、「後ろ(過去)に執着する、過去にこだわる」という意味です。彼らが後ろ、過去にこだわっていたために、復活のイエスに出会うことが出来なかったというのです。「後ろを振り向くこと」は大事ですが、聖書は「後ろを振り向かないで、・・・・」と言います。創世記19章に「ロトの妻の物語」があります。神がロトの妻をソドムとゴモラから救い出そうとした時に、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と警告しています。パウロも「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・、目標を目指してひたすら走ることです」と言います。「後ろのもの忘れ」の「忘れ」は「許される、受容する、委ねる」という意味です。つまり、過去を許され、委ね、前のものに全身を向け、ポレウオマイ・前に向かって進むというのです。或る方は「復活のキリストは、過去にとらわれている者の目を天の栄光に向けさせて下さる」と言います。
30節に「イエスがパンを取り、裂いて、弟子たちに渡すと、二人の目が開け、イエスだと分かった」とあります。この「目が開く(閉じた心を開く)」を、ルカは、使徒言行録9章18節では、「目からうろこのようなものが落ちた」と言い換えています。パウロはキリスト教徒を迫害していたので、復活の主に激しく打たれ、目が見えなくなりました。途方に暮れ絶望しているパウロのところに、アナニヤが遣わされ、パウロの上に手を置いて、「主イエスはあなたが元どおり目が見えるようになると約束された」と宣言しました。すると、パウロの目からうろこのようなものが落ちたといいます。パウロの回心・新生物語です。31節に「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とあります。二人の新生・回心物語です。主の復活イエスとの出会いは回心・新生、新しい人生の始まりを意味します。
ボンヘッファーというドイツの牧師がおりました。彼の死後、彼の信仰は日本の神学に大きな影響を与えました。彼は終戦の一年前の1944年4月8日のイースターの日にヒトラーによって絞首刑で処刑されました。ボンヘッファーは処刑の直前、ヨハネ福音書12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」を読まれたそうです。そして、知人のロシヤのココーリンに、「あなたは共産主義者で唯物論者ですから、わたしの命は終わりだと思うかも知れないが、わたしの死は新しい命の始まりです」と言い遺されたそうです。一粒の麦の実は地に落ち、朽ち果てます。しかし、朽ち果てた種から、新しい芽が出て生え、実を結びます。復活の主イエスは、一粒の麦のように、死は新しい命(ゾーエー)の始まりであることを明らかにしてくれました。死の向こうに、永遠の命、希望がある事実を証ししてくださいました。どんな所でも、どんな時にも、どのような状況でも神の希望がある事実を啓示してくださいました。