イエスの十字架の記事は四福音書に記されています。それぞれを読み比べて見ますと、ルカ福音書の十字架の記事は非常に簡潔に、事実だけを記していることが分かります。例えば「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉はありません。群衆が葦の棒の海綿にぶどう酒を浸して、イエスに飲まようとした場面も、イエスがひどく悲しみ絶望の淵に立ったという表現もありません。ただ、イエスが十字架につけられた事実だけを伝えています。
ルカ福音書時代の教会は厳しい迫害に耐えなければなりませんでした。その忍耐は十字架の主イエスを見上げる信仰から生まれました。ルカ福音書の教会には、貧しい人々が沢山いました。しかし、貧しかったがゆえに、分け合い、助け合う経験をしました。その共助の精神は、主イエスの十字架を仰ぎ見ることによって生まれました。また、教会の中にはいろいろな人がいました。その違いを越えて教会が一つになれたのも、主イエスの十字架を仰ぎ見たからです。
なぜ、そんなに忍耐するのかと尋ねられると、主イエスが十字架について死んでくださったからだ、と答えました。なぜ、そんなに苦労して語るのか、と尋ねられれば、主イエスが十字架について死んでくださったからです、と。なぜ、ここに教会があるのか、と尋ねられれば、主イエスが十字架について死んでくださったからです、と答えました。すべての事柄の根底に主イエスの十字架があるというのです。
詩人の水野源三さんに、「何がそんなに嬉しいの、そよ風が甘い香りを運んでくるから、いいえ違います。神様に愛されているから。」「何がそんなに嬉しいの、楽しかった過ぎ去った日を思い出すから、いいえ違います。神様に愛されているから」という詩があります。水野さんは、重い障碍を負い、生きることも辛いのに、回りの人から見れば不思議に思えるほど喜びに満ち溢れていました。水野さんを喜びと感謝に満ち溢れさせたのは、主イエスの十字架の信仰です。主イエスの十字架は水野源三さんの存在の原点でありました。
フィリピの信徒への手紙4章13節に「わたしは、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」とあります。この「お陰」は「~によって、~ために、助ける」という意味です。意訳すると、「わたしは主イエスの助けで、全てが可能です。わたしの生きる根拠、目的、生甲斐は主イエスの十字架です」となります。
39節に「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』と」あります。35節には「群衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』と」あります。37節には「兵士たちは言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』と」とあります。犯罪人、議員たち、群衆、兵士たち皆、イエスに向って「自分を救ってみよ。人を救うことなどできるはずがない」と言い、主イエスをあざけり、罵り、憎んでいます。しかし、彼らの罵りは、自分の内側には救いの根拠がないという自分自身への罵り、焦り、苛立ちです。彼らは絶望感で打ちひしがれています。
ローマの信徒への手紙7章15節には「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしの自己は分裂しています。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている・・・・・。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか。」とあります。パウロは、自分の力で自分を救おうとしました。パリサイ派として最高の学歴を持ち、熱心さでは誰にも負けまいと懸命に努力し、同じパリサイ派の人々から尊敬され、師と仰がれ、最高の地位も得ました。しかし、自分の内側は霊的な救いがなく、不安と恐れと焦りに満ちていました。自分の力では真の救いを得ることができない、自分の内側には自分を支える土台、根拠がないと告白しています。
41、42節に「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った」とあります。口語訳は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」となっています。この「御国、御国の権威」は「人間を究極的に生かす力、究極的な肯定、絶対的な肯定」を意味します。意訳すれば、「あなたが究極的な救いの根拠、絶対的肯定をもってお出でになる時には、わたしに与えて下さい」となります。
43節には「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」とあります。「楽園」は、ギリシャ語で「パラデイソス」と言い、神が囲いを造って、その囲いの中で完全に護って、生かしてくれることを意味します。意訳すると、「あなたは今日、神の囲いの中にわたしと一緒にいる」となります。言い換えると、あなたの究極的な支え、生き甲斐、生きる根拠、絶対肯定を与えるとなります。彼を取り囲んでいるものは、空虚、暗闇ではなく、神の絶対肯定と神が共にいるという究極的な約束であるというのです。詩編23編4節「死の蔭の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。神は、あなたがどこへ行こうと、どこに置かれようと、最後まで共にいてくださる。死の陰の谷を行くときも、神の囲いの中で歩ませてくださる。神の約束の言葉を信じて、前に進んで行きたいと思います。