2019年6月30日 ルカ福音書22章39-46節 「御心のままに」

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 与えられたテキストは「オリーブ山で祈る」です。他の福音書では「ゲッセマネで祈る」となっていて、イエスや弟子たちの様子が詳細に記されています。しかし、ルカ福音書では非常に端的に記されています。43,44節は[ ]で括られていまから、本来のルカ福音書にはなかったということです。平衡記事のマルコ福音書は「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」で結んでいますが、ルカ福音書では「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい」となっています(46節)。40節に「イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」とありますように、「祈りなさい」で始まり「祈っていなさい」で終わっています。つまり、内容的にはイエスの十字架前の苦難よりも、祈りの勧めです。
 ルカ福音書11章に「祈りの教え」があります。弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いますと、イエスは「主の祈り」を教えました。しかし、この「オリーブ山で祈る」は、イエスが祈らざるを得ない事態に直面し、自ら祈る、その実際の祈りを通して教えています。
42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」とあります。この「父」はギリシャ語で「パテール」と言い、子どもが父親を呼ぶ時の「お父さん」という意味です。つまり、「父よ」という神への呼びかけが祈りであるというのです。ユダヤ教では、祈りにはきちんとした祈禱文と儀式がありました。それでなければ、「祈り」ではないと教えられていました。しかし、イエスは画期的に「父よ」という短い呼びかけが祈りであるというのです。
ローマ人への手紙8章26節「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」とあります。「切なるうめき」は「ため息、嘆息」という意味です。パウロは熱心なファリサイ派でしたから、決まった祈禱文と儀式がありました。しかし、復活のイエスに出会い、キリストの信仰を持つようになり、言葉にならない、切なるうめきも祈りであると認めるようになりました。イエスも神を「父よ」と親しみを込めた呼びかけが祈りであるというのです。
 荒井献先生は「イエスが『父よ』と祈ったのは、史的にはイエスが初めてで、画期的な出来事である」といいます。神を見たら死ぬと言われていたように、神は近寄り難い恐ろしい存在で、「父よ」と呼びかけることなど許されませんでした。しかし、イエスは神を近づけてくださいました。イエスの神は、どこででも、どのような形でも、親しく呼びかけられことができ、身近に感じ、寄り添ってくださる神です。遠藤周作的に言えば、「母なる神」です。子どもの過ちを許し、子どもと共に苦しみ、子どもの悲しみを慰めてくれる母のような神です。荒井献先生は、その著書「イエスと、その時代」の中で「神を父よ、と呼びかけているイエスは、最も確かな史的イエスである」と述べています。イエスは、親しみを抱いて寄り添える神を明らかにしてくださいました。
42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」とあります。この祈りにもイエスらしさが表れています。自分の願いを第一に祈っています。ファリサイ派の人々は、これが祈りかといぶかる程でした。しかし、イエスは恐れることなく、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と、自身が願うことを率直に祈っています。
 42節の後半に「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とあります。この「わたしの願い」は「わたしの意志、わたしの思い」という意味です。「御心のままに」の「御心」は「神の思い、意志」です。「行う」は「成就する、実現する」という意味です。言い換えると、「わたしの意志や願いではなく、あなた、神の意志と思いが、わたしの身において実現するように」となります。正に究極的な祈りです。祈りの最期の最期は、神の御旨がこの身において成就しますようにという祈りになっています。
45節「イエスが祈り終わって立ち上がり。弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい』」とあります。イエスは弟子たちを叱責したと解釈されてきました。しかし、本文は、イエスの叱責よりも、慰めと励ましに解釈できます。「なぜ」も、理由を問うよりも、慰め、励まし、勇気づけの言葉です。意訳すると、「イエスは言われた。『眠らないよね。眠るはずがないよね。・・・』」となります。イエスは弟子たちを慰め、弟子たちに寄り添ってくださっているのです。
 「起きて祈っていなさい」の「起きて」は、45節の「イエスが祈り終わると、立ち上った」の「「立ち上がる」と同じ言葉で、ギリシャ語で「アナスタス」と言い、イエスの復活に使われています。イエスが死から新しい永遠の命を受けて、立ち上がったことを意味します。つまり、イエスは御自分が死から立ち上がったように、弟子たちも立ち上り、前に進むことを願っているのです。イエスは眠り込んでしまった不甲斐ない弟子たちを叱責していません。逆です。弟子たちを慰め、弟子たちが立ち上がって祈ることを期待しているのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(立ち上がっている)」。わたしたちも、主イエスの言葉に勇気づけられ、立ち上がらせていただき、祈り、新しい一歩を踏み出したいと思います。