2019年6月16日 ルカ福音書21章5-9節 「神の希望に生きる」

  • 投稿カテゴリー:全て / ルカ書

 与えられたテキストはルカ福音書21章5-9節の「神殿の崩壊を予告する」です。イエスが「エルサレム神殿が崩壊する日がくる」と予告しても、皆信じませんでした。彼らは所謂偽教師たちのエルサレム神殿が崩壊することはないとう教えを信じ込んでいました。この時代のエルサレム神殿はヘロデ王が46年もかかって建設したものです。正面玄関と回廊の円柱は12メートルの大理石で造られ、建物の大部分は純金の板で覆われていました。神殿の前に立った群衆は、「先生、これは何と見事な石でしょう。何と素晴らしい建物でしょう」と驚きの声を挙げ、エルサレム神殿は永遠不滅だと信じ込んでいました。しかし、イエスは必ず崩壊し滅びる日が来ると予告するのでした。それは何を意味するのでしょうか。
文脈を見ると、「神殿の崩壊予告」は「レプトン二枚の銅貨を捧げた貧しいやもめの話」の後に編集されています。イエスは貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を捧げたのを見て、「この貧しいやもめは、だれよりも沢山入れた」とやもめを讃えています。その物語に続いて、神殿の崩壊予告があります。神殿の崩壊予告はレプトン二枚を献げた貧しいやもめの物語との関連の中で語られています。つまり、神殿崩壊の予告は、貧しいやもめの文脈の中で読まれるべきであるというのです。
 6節の文頭には、本来「見よ、あなたがたは・・・」となっており、「見よ」という言葉があります。弟子たちは神殿の外観と外側に関心を奪われ、やもめがレプトン銅貨二枚を捧げたことに目を向けていないのです。その意味では、彼らは信仰の本質を失っていました。弟子たちが目を注がなければならないのは神殿ではなく、レプトン銅貨二枚を捧げた貧しいやもめであるというのです。レプトン銅貨はユダヤでは一番小さな硬貨です。レプトン二枚銅貨を捧げた行為は、小さなこと、弱いことの象徴です。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。イエスは小さいこと、見えないものに目を注ぐというのです。人を圧倒するような豪華なエルサレム神殿でも滅びる。しかし、この貧しいやもめの信仰は永遠に生き続けるというのです。
この時代のローマ帝国はユダヤを初め、ヨーロッパやアジアを力で征服しました。人々は人を支配する力、権力、財力を愛し、頼りにしていました。逆に、小さいものを軽視し、見捨て、顧みることはありませんでした。彼らはそのような価値観を持ち、そのような風潮に流されていました。長い間、大きく、強いことは良いこと。小さく、弱いことは劣っている、悪いことと考えていました。しかし、イエスに出会って、そのような考えは信仰的でないと分かりました。申命記7章7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、・・・・」とあります。神はイスラエルの民を、自分の宝としました。それは、イエスラエルの民に力があり、偉大あったからではありません。弱小の者を愛する神の愛が注がれていたからであるというのです。マタイ福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とあります。神は少なくて弱い者を愛し、小さな信仰を大事にしてくださいます。
 7節に「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」とあります。イエスはいつものように直接的に答えないで、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と言い。さらに、「戦争とかや暴動のことを聞いても、おびえてならない。世の終わりはすぐに来ないからである。」と答えています。この「惑わす」は「真理、確信、信仰を失う」という意味です。「おびえる」は「アイデンティーを失う、生き甲斐を失う、絶望する」という意味です。つまり、あなたがたは真理、信仰を失い、絶望してはならないというのです。
 9節に「世の終わりはすぐには来ないからである」とありあす。本来は文頭にあり、強調しています。偽教師たちは「世の終わりはすぐに来る」と教え、人々はその教えを信じ、慌てふためき、失望落胆しました。しかし、イエスはどのようなことに遭遇しても、慌てふためき、戸惑ってはならないというのです。彼らは自分たちが置かれている状況だけに視点をおいて将来を見ています。しかし、イエスは違います。イエスは現実から将来・終末を見るのではなく、神の勝利の終末から現在を見ています。イエスは救いの完成・勝利の終末、将来の救いから現実を見ているのです。
 イエスは、ユダヤ人の中にあった因果応報論を変えようとしています。因果応報論者は、ヨハネ福音書の生まれつきの盲人の物語にあるように、この世で様々な苦難を負って生きる者は罪を犯し、その報いを受けていると信じていました。しかし、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言い、因果応報論を否定しています。マタイ福音書5章45節には「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからである」とあります。神は人間の善悪に関係なく、普遍的に人を愛し、救ってくださいます。イエスの愛と救いは絶対です。苦難や困難に遭遇しても、因果応報論や運命論に陥ってはならない、苦難の中にこそ神の愛の支配と摂理があると言うのです。終末的な勝利と救いを信じて歩みなさいというのです。詩編62編6節「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ、神にのみ、わたしは希望をおいている」とあります。神にのみ、終末論的希望をおいて前進していきたいと思います。