東大宇宙線研究所教授でした戸塚洋二さんは、宇宙線研究が専門分野で著名な学者で、ノーベル物理学賞の候補と言われていましたが、癌に冒され、2008年7月に、66歳の短い生涯を終えられました。晩年、癌を患われ、研究と癌との闘いでした。研究と病いと闘いの貴重な記録は、「癌と闘う科学者の記録」という著書で出版されています。癌は大腸癌が始まりで、左右の肺に転移し、最後は脳に転移し、没しました。先生は科学者の目で癌を冷静に見て分析し、癌治療現場に積極的な提言されました。脳に転移して、余命19ヶ月と告げられたとき、恥ずかしい死に方をしたくない、人間としての尊厳を失わないと心に決められ、勝利の生涯を全うされました。「人生は、苦難と試練と孤独の闘いの連続である」という言葉を残しておられます。先生の言葉は、多くの人に受け入れられ、真実であり、真理であることが、先生の人生で実証されたと思います。
旧約聖書の預言者エレミヤは「人が生きていくとき、避けて通れない多くの苦難がある。しかし、その苦難を回避するのではなく、正面から受けとめ、向き合って生きていかなければならない」と言っています。エレミヤが預言者として活躍したのは、紀元前六世紀、南ユダ王国が滅亡(BC587)へと向かう約40年間です。エレミヤは南ユダ王国のヨシヤ王の治世13年(BC626年)に、預言者として召命を受けました。ところが、突然、大国エジプトが南ユダに侵略を始めました。不条理ですが、南ユダのヨシヤ王はエジプト王ネコとの戦いで戦死しました。南ユダは、ヨシヤ王を失うと、国内に偶像礼拝が流行し、民の心は腐敗し、国力は衰え、衰退しました。国外では新バビロニア帝国のネブカドレッアルが台頭し、南ユダに侵略し、多額の朝貢を要求しました。南ユダはバビロンの朝貢を拒否したため、バビロン捕囚が起こりました(BC598年)。南ユダのゼデキヤ王は預言者エレミヤの警告を無視し、エジプトに援軍を求めました。それを知ったバビロン王ネブカドレツァルはエルサレムに侵略し、包囲し、神殿に火を着けました。ゼデキヤ王は捕えられ、両眼を潰され、バビロンに連行されました(BC538)。所謂、第二回のバビロン捕囚です。
エレミヤはバビロン捕囚、イスラエルの崩壊の中で、預言者の召命を全うしました。預言者は「神の言葉を預かる者」と書きますように、自分を語るのではなく、神の言葉を語ることが使命です。人々から喜ばれるのではなく、神に喜ばれることを第一にします。エレミヤは預言者として、イスラエルの人々の不信仰、神の裁き、飢饉、滅亡、罪に対する警告と厳しい神の言葉を語りました。そのために、王や祭司の反発、反感を受けました、若くて、預言者に召されましたので、「生意気だ。売国奴」と言われ、暗殺されそうにもなりました。神殿の最高責任者であったパシュフルは、エレミヤを捕え、鞭打ちの刑を与え、神殿のベニアミンの門に拘留したと記されています(20:1以下)。エレミヤは預言者に召されたために。苦しい辛い目に遇いました。
エレミヤは、地方聖所アナトトの祭司の息子です。地方の出身から、素朴で、感性豊かな性格、強い正義感と信仰を持っていました。反面、優しく細やかで、人一倍傷つきやすい人柄でした。預言者の召命を辞退しようと何度も思ったと告白しています。
エレミヤ20章9節に「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」とあります。エレミヤは、断ったのに、神は無理矢理に預言者にした。神にだまされた。語れば、嘘つきだ、裏切り者と憎まれ、馬鹿にされる。預言者なんかになるものか、もうやめた、と呟くのでした。しかし、矛盾していますが、やめられないエレミヤがいます。やめればエレミヤではなくなるのです。主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けですと言っています。
ガラテヤ2章20節に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の恵みを無にはしません。」とあります。パウロの告白です。エレミヤもパウロも、今生きているのは、神の子に対する信仰によるのであると告白しています。神の言葉はエレミヤやパウロを内側から、促し、力づけ、立ち上がらせ、苦難、試練に立ち向かわせました。
使徒言行録20章24節に「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いわない」とあります。パウロは苦難を回避するのではなく、福音の力を信じて、苦難に向かっていく生き、主に与えられた使命を引き受けて行くと述べています。
パウロは、苦難に出遭った過去、出遭っている現在、出遭であろう未来について語ります。苦難は避けられない。同時に、神は苦難を引き受けてくださると信じるといいます。また、神の恵みの福音を力強く証しする任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わないと言います、パウロにとって、主イエスから託された任務を果たすことが、人生の究極的な使命であると言います、この「任務」はギリシャ語では、「デアコニア」と言い、「神への奉仕、努め、課題」という意味です。つまり、神の恵みの福音を力強く証しすることが、託された任務、使命であるというのです。
エレミヤやモーセは、神の言葉を語る任務に忠実に生きようとしたために、人々から罵られ、辱められ、孤独と虚無に苦しみました。しかし、十字架の主イエスは苦しむ者、弱い者、貧しい者を勝利に導かれます。神はわたしたちの最後に勝利をお与えになると約束されました。その主イエスの約束の言葉を信じ、苦難に、課題に立ち向かっていきたいと思います。
ローマ8章35節に「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を納めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未來のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。パウロは神の究極的な勝利を証言しています。究極的な神の愛と勝利を信じて歩んでいきましょう。